いつたん出雲「族」だのスサノヲ「族」だのといつた妄想に神話を帰着させてしまふと「証明することも否定することもできない」ファンタジーの出口のない迷宮を死ぬまでさまよふのがオチだ。さうした人々は、スサノヲ神話の宇宙論的意味を全く解してゐないから
「兵士のひとりは淡青色の歩兵用の外套をまとひ、もうひとりは、大戦以来アルジェリア兵やアフリカ部隊の制服となつた、ベージュ色の毛織の軍服ーーだぶだぶのズボンと胴のしまつた上着ーーを身につけてゐた。ひとりは右足がなく、セネガル人であるもうひとり
賞金稼ぎデッカードをどれほど痛めつけやうとも、「不可避な死」といふ運命を回避できるわけではない。「この眼が見て来たものをお前にも見せてやりたい」といふ不可能な欲望。ルサンチマン。
極寒の水に落ちてしまつたらどうすべきか。この映画に模範解答がある(52分頃から)。防水マッチくらゐ持つてゐないと命を落とすことになる。アラスカ犬は平気なのがスゴイ。#ゴールデンカムイ
波vs凪。波立つ心、感受性の鋭敏の、辿り着く先とは、黄泉の国である。感受性は、受動性の能力であり、その究極は、必然的に、多数の霊に代はるがはる憑依される悪魔憑き的状態、もしくは、抑制出来ない暴力のイメージである。腐乱状態のイザナミ、ウォーキン
#ゴールデンカムイ 杉元佐一は、203高地の戦闘のサヴァイヴァーだが、小動物を屠殺することに抵抗感を持つ。 一方アシリパさんは、食ふもの、食はないものを区別する狩猟民族のコードに従ふ限りは、そのやうな感情は抱かない。(脳みそに塩掛けて食ふと美味い
#西郷どん 祖父が奄美大島の教員として赴任した時期があり、我が家にはこの奄美出身の著名なロシア文学者による、祖父への献辞入りのこの本がある。南島の文身習俗なども図解されてゐる。
弾傷を受けて、もうここらでよかと、はるか宮城を礼拝ののち自刃といふ「見てきたやうな最後」は、『大西郷秘史』(1914=大正3年)といふ古い小説にもあるが、フィクションでせうね。『大西郷秘史』ではまた、首無し死体を、西郷どんに「私淑」する者が検分
カウチに横たはり、万巻の書を読み、熟考に熟考を重ね、満を持して、行為に着手するとしても、ひとは愚行しかなしえない。何故なら行為とは、過去のデータしか利用できず、未来に対する純然たる無知のなかで、不可逆的に時に参与すること(そのために死ぬかも
思考は生に取り憑いた死に他ならず、「純粋な力」としての生を去勢せんとする。混沌に目鼻を付けること。又は、黄泉比良坂に於けるイザナミの宣言。平行世界(冥界)からもたらされるイマージュ。映像の召喚。カタカタカタと音たててフィルムが回り始める。
ポエジーの何たるかを、誰か他人に教へて貰はうといふ根性も、それを誰か他人に講釈してやらうといふ根性も、ポエジーから無限に遠い俗事に過ぎまい。「私淑」といふ慎ましさを超えぬこと。これは「ヒソカニヨクスル」と訓ずべき語で、某批評家の如く面識ある
「レイダーズ失はれたアーク」のゲシュタポ捜査官トート(上)と「高い城の男」の憲兵隊大尉木戸(下)「大日本帝国は、ナチスと似たやうなもの」であるやうな平行世界からもたらされたフィルム。その平行世界では、 日本人は容疑者家族の女子供をガス室で殺
「その答は人間である」といふ所謂「スフィンクスの謎」で興味深いのは、その「答」を導き出す、「言はれてゐない問ひ」が存在することだ。すなはち、「空を飛ぶ鳥の翼(陽)と、地を這ふ獣の脚(陰)の中間に垂直に立つ者とは何か?」である。「その答は人間
#入沢康夫 氏とは相互フォローになつてゐた。もはや、どんな切掛けであつたか思ひ出せない。おそらく、松山俊太郎師についての私のツイートではないだらうか。あの可愛いらしいアイコンの由来は何なのだらう。合掌。