mixiユーザー(id:24016198)

2018年03月23日19:40

237 view

あの頃のシリア

大都市の恩恵というべきなのだろうが、ナントカ映画祭と銘打った、いわゆる第三世界の映画を観る機会に、東京に住んでいると恵まれるものだ。
まがりなりにも商業ベースにのって、岩波ホールやなつかしのシネマスクエアとうきゅうなんかで上映されるような、例えばアッバス・キアロスタミやパラジャーノフ、古くはサタジット・レイ翁といったビッグネームの作品とはまたちょっと違う、好事家が使命感に燃えて字幕をつけてくれたような(拍手!)、あんなのもあります、こんな映画もあるのですといったさまざまな国の映画たち。
そうした映画の上映会に足を運ぶと、かなりの頻度で、なんだかよくわからないなぁと思いながら観ているうちに唐突に映画が終わって、へ?ここで終わるの?となったり、途中で寝ないように頑張って観終わったあげくに、で、テーマは何だったの?と思いながら、同様に釈然としない表情を浮かべた他の観客といっしょに、黙りこくって座席を立つ(そういう時の、上映後の明るくなった映画館の雰囲気には、まことに独特のものがある)、という経験を重ねることになる。
ふだん親しまない文化圏の映画というものは、往々にして観る者の言葉を失わせるものだ。
 
今回、久しぶりにそれに近い映画を観てしまった。
ただし、上映後に1時間近くトークセッションがあったので、あの懐かしい沈黙は味わえずじまいだったけれど。
 
 
シリアの『ラジオのリクエスト』。
 
海に近い高台の集落に暮らす人々は、毎週火曜日のラジオ番組、「リスナーズ・チョイス」に、自分が葉書でリクエストした曲がかかるかどうかをとても楽しみにしている。
番組の時間がせまると、人々はこぞって集落で唯一ラジオを持っているらしいジャマールの家に集まり、庭先の涼しい木陰で、グラスにふるまわれたお茶を飲みながら、番組が始まるのを今か今かと待ち受ける。
――あたしのリクエストがかかったら、あんたと結婚してあげるわ。
――「プリンセスへ」というハガキが読まれたら、それは僕から君への愛の言葉だからね。
しかし番組は時おり、イスラエルとの交戦の臨時ニュースで途切れたり、せっかくの曲が勇ましげな軍艦マーチに替わったりする。
 
ジャマールの家には、二親が面倒を見るのを投げ出した知恵遅れの従兄弟が住んでおり、彼が夜といわず昼といわず引き起こす騒動にジャマールの母はもはやキレ気味、しかし包容力のある父は、甥っ子が何をしでかしても笑って受け止め、ジャマールも倦まずにそんな従兄弟の相手をしてやるのだった。
 
ジャマールには将来を言い交わした娘がいる。
村一番の美人アジーゼ(ペネロペ・クルスにちょっと似ている)は、毎晩寝る前に、庭の木立にわたした紐の先端を自分の髪に結んで休む。
夜になってからジャマールがそっと訪ねてきて、庭からその紐をちょっとひっぱれば、アジーゼが飛び起きて暗がりの中を会いにゆく、という寸法だ。
 
そんなある日、ジャマールに召集令状が届く。
砲兵隊に配属された彼は、前線基地で、夜、上官の宿舎のラジオから流れてきた曲を聴きつけ、郷愁に涙を流す。
思い切って休暇を申請すると、そんな彼を見ていた上官が特別に17時間の休暇を許した。
同じ頃、従兄弟を慕って落ち着かない甥を見かねて、父は彼を連れてジャマールのいる基地を訪ねる。
誇りっぽい道を、農作業や土木作業の車に載せてもらい、バスを乗り継ぎ、また歩きながら、走りながら、道を急ぐ両者。
暗くなって村にたどりついたジャマールは、恋人と抱き合い、今度帰ったら結婚しようと言い交わし、自分の家の前まで来て庭から大声で母を呼ぶと、もう時間がなくなった。
一方基地に着いた父と従兄弟は、息子さんは今日は休暇で家に行ったと告げられ、行き違いにがっかりする。
 
村では日々の農作業が続き、悲喜こもごもが繰り広げられ、人々は相変わらず火曜日のラジオの時間を待ち望んでいるが、他方で戦場は今や、イスラエル軍戦闘機の大群の猛攻を受け、兵士たちがバタバタと斃れてゆく。
ジャマールの村に、シリアの国旗で丁重にくるまれた棺が到着したのは、そんなある日だった。
 
 
おわかりのように、この映画は、人々の他愛もない日常が戦争という究極の暴力で破壊されてゆくようすを、牧歌的で罪もない日々のスケッチの積み重ねをとおして描いている。
目新しい手法でもないし、完成度洗練度ともに別段たいしたこともない作品だが、その「たいしたことのなさ」が、この映画の最大の魅力なのかもしれない。
素朴極まりない人々の日常の風景や艶笑譚、家族愛などのエピソードは、どれも見知った物語だ。
この作品に出てくる人々の、どれだけがプロの俳優なのかはわからないが、村人の演技は多分に学芸会的であり、わざとなのかと思うほどに、演出も単純だ。
(シリアでは、映画はすべて国営なのだそうだ。)
その稚拙と言いたくなるような作りと、人々の服装から、相当前の時代の作品なのかと思ったら、なんと2003年製作というから驚きだ。
しかし、ラジオの臨時ニュースでアメリカの月面着陸成功が報じられるので、どうやら舞台は1969年前後、第3次中東戦争の真っ只中であることが知れる。
とするとアブドゥルラティフ・アブドゥルハミド監督は、少し前のシリアの、まだ人々が笑顔で素朴に暮らしていた時代が少しずつ破壊されてゆくその様子を、あえて「田舎臭い」映像に仕立ててみせた・・・ということなのだろうか。
 
観終わった今も判然としないが、はっきりと言えるのは、この映画が極めて好ましい作品だったということだ。
実の子供たちと知恵遅れの甥っ子を限りない愛情でつつみ、雇い主から追い出された貧しい男を、戦場へ行った息子の代わりにあたたかく迎えるジャマールの父親の造形が、この作品の魅力をしっかりと支えている。
あのような父親が、息子を失ったり、不幸になったりしては断じてならないのだ。
 
ラジオをとおして聞こえてくるウンム・クルスームやフェイルーズの歌声は、なんともいえぬ郷愁を観客に届けるし、曲がかかると皆が一斉に立ち上がって両手を広げて踊りだす場面は、中央アジアから北アフリカにかけての人々の、共通した祝祭の雰囲気満点だ。
誰にもこれは奪えないし、奪われてはならない。
スクリーンに映し出されたアラブの、シリアのかつての日常を観ながら、心の隅で、今の世界のことを考えた。
 
 
映画の上映後、シリアで4度にわたって活動したという、「国境なき医師団」の白川優子氏によるトークセッションがあった。
 

国境なき医師団
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1965769733&owner_id=24016198
12 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する