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原始仏教コミュのヴィパッシン・ブッダのパーティモッカ

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「ヴィパッシンのパーティモッカ」の偈です。「七仏通誡偈」(しちぶつつうかいげ)として知られていますが、そのような記述は原始仏典にはありません。


長部経典>第14経 マハーパダーナ・スッタ[大本経]

「90.比丘たちよ、そのときまさにヴィパッシン先生・阿羅漢・正覚者は比丘サンガにこのようにパーティモッカを説示した。


  忍耐し堪えることは最高の苦行であり
  涅槃は最高のものであると覚った者は説く

  他を害する者は出家者ではなく
  他を悩ます者は沙門ではない

  一切の悪を為さず
  善を具足し
  自らの心を清めること
  これが覚った者の教えである

  罵らないこと 害さないこと
  パーティモッカを守ること
  食の量を知り 僻地で寝起きし
  心に勤め励むこと
  これが覚った者の教えである」



[パーリ語原文]
  
90. ‘‘Tatra sudaṃ, bhikkhave, vipassī bhagavā arahaṃ sammāsambuddho bhikkhusaṅghe evaṃ pātimokkhaṃ uddisati –

 ‘Khantī paramaṃ tapo titikkhā,
 Nibbānaṃ paramaṃ vadanti buddhā;

 Na hi pabbajito parūpaghātī,
 Na samaṇo [samaṇo (sī. syā. pī.)] hoti paraṃ viheṭhayanto.

 ‘Sabbapāpassa akaraṇaṃ, kusalassa upasampadā;
 Sacittapariyodapanaṃ, etaṃ buddhānasāsanaṃ.

 ‘Anūpavādo anūpaghāto, pātimokkhe ca saṃvaro;
 Mattaññutā ca bhattasmiṃ, pantañca sayanāsanaṃ;
 Adhicitte ca āyogo, etaṃ buddhānasāsana’nti.




僕の訳だけでは心もとないと思いますので『原始仏典 第二巻 長部経典2』(春秋社)の記述も引用します。


「二八、比丘らよ、そのとき尊師・敬われるべき人・ただしく全きさとりを開いた人ヴィパッシンは比丘たちの集いにおいて、次のように戒本を誦した。
  最高の苦行は耐えること(忍辱)であり、がまんすることである
  ニルヴァーナは最高の〔理想〕である、〔そう〕仏たちは説く
  他者を害する者は出家者でなく
  他者を悩ます者は道の人(沙門)ではない 
  いかなる悪もなさないこと、善を獲得成就すること
  自らの心を清めること――これが仏たちの教えである
  罵らないこと、害さないこと、戒本にもとづき抑制をなすこと
  [50]食事において適量を知ること、淋しい場所で坐臥すること
  心に関して修練すること、――これが仏たちの教えである」

   『原始仏典 第二巻 長部経典2』春秋社 P63−64


この偈の解説が日本テーラワーダ仏教協会のホームページにあったので紹介しておきます。

 ・パーリ経典 諸仏の教え
  http://www.j-theravada.net/pali/key-buddhanu1.html




実際には原始仏典に「七仏通誡偈」という単語は存在せず、もし命名するなら「ヴィパッシンのパーティモッカ」というのが正しい名前になると思います。このパーティモッカを唱えたのは七仏中では第九十一劫前に出現した七仏第一のヴィパッシンのみであり、ゴータマのパーティモッカは四波羅夷・十三僧残・・・の非常に長いパーティモッカです。ヴィパッシンの教団にはゴータマの教団にあったような律が存在しなかったことが律蔵に書いてあります。つまり、この偈のみがヴィパッシン教団の最低限の規律であり教えであったということです。罰則事項がないことがゴータマのパーティモッカとの相違です。




  忍耐し堪えることは最高の苦行であり
  涅槃は最高のものであると覚者は説く
   → 忍耐という最高の苦行の道によって
     涅槃という最高の目的地に達するということだと思います

  他を害する者は出家者ではなく
  他を悩ます者は沙門ではない
   → 人畜無害が沙門の基本で
     特に自傷行為の禁止よりも
     他者を傷付けないことを重要視しています。

  一切の悪を為さず
  善を具足し
  自らの心を清めること
  これが覚者の教えである
   → 自らの心を清めることが善に含まれていないことから
     「他者に悪を為さず」「他者を利する善を具足し」という
     意味が強いと思います。他を制して自己を制する順序です。

  罵らないこと 害さないこと
  パーティモッカを守ること
  食の量を知り 僻地で寝起きし
  心に勤め励むこと
  これが覚者の教えである
   → 悪い語業をやめ 悪い身業をやめ
     パーティモッカを守ることはまとめて悪い邪命を断つことです。
     僻地の寝起きは根の防御に役立ち、食の量を知ることは
     根の防御と対を為すものです。
     悪の身・語・命は内から外に生じるものでこれを断ち、
     食量知と根防御は外から内に入ってくるもので悪を防ぎ、
     内外の生じていない悪を生じさせないように防御した後は、
     すでに生じた悪である貪瞋癡を断つために心の修行をする、
     こういう対応関係になっていると思います。


忍耐を最初に説くのは漏の原因が外(五感)から来ようと内(心・意根)から来ようと身語意による行から来ようと忍耐によってそれを破壊するからです。忍耐は聖なる神通・聖なる根防御・眼耳鼻舌身意に勝つ六勝処の修行と同義であり、漏尽を達成し維持するために必要不可欠のものだからです。阿羅漢を目指す者も忍耐するし、阿羅漢になった者も忍耐する、これは一切の沙門に共通の美徳であるがゆえに、最初に忍耐を説くのだと思います。そしてその忍耐のみで涅槃に達するがゆえに、忍耐行を最上苦行と説き、最上苦行によって涅槃という最上なるものに達すると続けます。

他者を害さず悩まさないというのは「一切の悪を為さず」に含まれるものですが、これをあえて取り上げたのは「無害」がパーティモッカの真髄だからこそであり、誤解や不明瞭な点がないように釘を刺しているのだと思います。

次に善悪においては悪を断ち善を修すると明示することで、修行の圧倒的な正しさを確保し、自らの心を清めることを付け加えることによってそれが「自己修練」の教えであることをも明らかにします。即ち、修行の目的は世界平和や救世という外界に存在するのではなく、自らの内に存在することを明らかにしています。何から心を清めるのかということは明示されていませんが、貪瞋癡・一切執着・一切渇愛・一切貪りであることは各自が知るべきだと思います。いわゆる苦因・漏です。

上記の教えを全てまとめたものが最後の段になります。内から外に出るものとして邪語を断ち、邪業を断ち、邪命を断ち、外から内に入るものとして食の量を知り、根を防御します。生じていない悪を生じさせない律儀勤によって、内に汚れなき歓喜が生じ、楽を得て、集中します。心に精勤して集中するときは知りたいことを知り、智慧も生じます。そのときは、戒定慧を円満します。

以上がヴィパッシンのパーティモッカですが、一方のゴータマのパーティモッカは非常に細々としたもので重罪である身業・語業を為したものは永劫破門とし、犯意ある意業は軽罪であるドゥッカタとして処理されます。ヴィパッシンのパーティモッカは悪を禁止し善を勧めることの両方が入っていますが、ゴータマのパーティモッカはサマーディしろということはなく、罪と罰に関する細かな分類と規定に終始するのが特徴です。

そうは言っても、ゴータマのパーティモッカを完全に守るときは必ず心が集中する状態が生み出されるのがそのすごさだと思います。禅那しろと言わずともパーティモッカが比丘の心をコルセットのように強制し、自然に正しい姿勢・正しい心に導きます。一方で汚れた比丘は教団から破門されて教団は清浄を保ちます。しかし、教団が堕落し、正法が失われたのはゴータマ時代になかった漏が生じる状況が起きて、誰もその漏処法に対して新たな律を制定せず、「今まで律で禁止されていないからいいだろう」と漏処法を放置したことが教団の堕落の一因になっているのではないかと僕は考えています。


ヴィパッシンのパーティモッカ全体を考えるとこういうイメージの出家者像が出て来ると思います。

「ぼこぼこにされても決して怒らず
 ぼこぼこに言われても決して言い返さず
 無抵抗であたかも愚物のごとく

 食事は少なく一人でひきこもり
 何もないところでじっと座って瞑想している」

こういう昔ながらの修行者のイメージ、苦行者のイメージであることがわかります。大人しい亀のような感じです。実際、原始仏典には「比丘は亀のように五感と心を引っ込めて悪魔から己を守れ」という主旨のことが六処相応に書いてあったと思います。ゴータマも「犯罪者に手足を切断されても怒るならば私の弟子ではない」と言っています。ゴータマの弟子の条件は「絶対に怒らないこと」で、怒った瞬間にゴータマの弟子ではなくなるのですから、これは非常にわかりやすい判断基準であり、またゴータマの名誉も損なわれないゆえに、実に素晴らしい基準を設定したものです。「人畜無害でやられっぱなし言われっぱなしで反撃しない」というのは確かに最高の苦行だと思います。無害の利点を観じることがこの修行に資するものだと思います。

この「ヴィパッシンのパーティモッカ」は梵行の枢要ですので覚えておくと便利だと思います。

コメント(2)

そう言っていただけると労が報われた思いがします。ありがとうございます。

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