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原始仏教コミュの神社・お寺・教会への考え方

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原始仏教を信じる人の神社やお寺への考え方について書きました。






   【原則】

    原始仏教は「修行方法の教え」です。
    修行は「自力」。信心は「他力」です。
    人々と神々の援助を受けながら修行することは許されています。
    「これを拝め。これを拝むな」ということはありません。
    従って聖八支道を歩めるならばどの神々に祈ろうと自由です。
    ただし「見解は原始仏教の見解を堅持する」のが原則です。
    






  1.仏壇と神棚    お供えOK   
  2.神社       参拝OK
  3.お寺       参拝OK
  4.教会       礼拝OK
  5.寄付と祈願    寄付OK・祈願OK
  6.結論     







1.仏壇と神棚

原始仏教を信じる人でも今まで通り、毎日お供えして構いません。

原始仏教では先祖供養とその土地の神への供儀は在家の美徳として賞讃されています。ですから、仏壇に祀られているご先祖さまについても、神棚に祀られている神々についても、毎日ご飯・お水・お塩・榊やお花などをお供えして構いません。お供えの食べ物は餓鬼さま(ペータ。幽界の存在と思われます)が食べると原始仏典に書いてあります。自分の先祖を遡ると大抵、餓鬼に転生した血縁者がいるので、その餓鬼さまが食べるとのことです。餓鬼が先祖にいない血筋というものはほとんどないらしいです。

また餓鬼にならずにガンダッバ(香の神々。最下等の神々で霊界の存在者である霊だと思われます)に転生した先祖は「お線香」の香を食べると思いますので、少しいいお線香を使われてもよいと思います。この「毎日のお供え」や「托鉢への布施」は阿羅漢も近づくと原始仏典に書いてあります。それは誰も傷つかないから他の祀りより良いのだということです。今の日本には阿羅漢がいる教団は多分ないと思いますので、阿羅漢に布施する功徳は得られませんが。先祖霊や餓鬼さまへのお供えはできますので、供え方はその家庭・その菩提寺・その地方のやり方で構いませんので毎日行なうと功徳が日々に蓄積されてよいと思います。






2.神社

原始仏教を信じる人でも今まで通り、神社に参拝して構いません。

原始仏典にはその土地その土地を支配する神々が存在することを示す記述がパーリ語の大般涅槃経にあります。氏神様や産土神社、崇敬神社に参拝しても何の問題もありません。初詣や旅行のときは有名神社に参拝してもいいです。

初穂料を納めるのもお布施の一つです。原始仏教においては自分が住んでいる土地の神々への古いしきたりを守っていくことは在家の美徳の一つとされています。親孝行が善行であるように、自分が住んでいる地域を支配している神々を崇敬することは善行です。出家者の宗教行為が禁止されているのは「修行第一」というのが理由であって、「神々と仏教は反発する」という理由ではありません。むしろ日本の神々は仏教に寛容だと思います。

ゴータマも神々と親しく付き合い、法施を繰り返ししてあげています。出家者は宗教行為はしませんが「アーターナーターの護経」などを唱えることによって出家者も神々の協力を得ることをゴータマは推奨しています。神々の協力を得ることは在家出家双方に許されています。『ブッダ神々との対話』(岩波文庫)を読んでも、出家も神々と仲がいいことがわかります。

  【まとめ】
  見解は神道の見解ではなく原始仏教の見解を採用する
  神社に祀られる神々を崇敬してもよい
  聖八支道が歩めるならば神々と協力し合うのは何ら差し支えない





3.お寺

原始仏教を信じる人でも今まで通り、お寺に参拝して構いません。

菩提寺にも本山にも参拝して構いません。初詣や旅行のときは有名なお寺に参拝しても構いません。浄財も布施の一つです。「お寺に阿弥陀如来が祀られているけど、あの阿弥陀さまは悟って解脱した阿羅漢なのだろうか」と疑問に思う人もいると思います。僕は霊能力がないので類推しかできませんが、僕が考えたのは「あの阿弥陀さまは多分、悟っていないし解脱していないし阿羅漢でもないだろう。あれは思うに、『阿弥陀如来好きの神様』が阿弥陀さまの姿を取って、活動しているのだろう。だから実際に病気が治ったり救われる人がいるのだ」。僕の考えは「お寺に祀られている仏さま方は、実は如来でも阿羅漢でも正覚者でもなく、その仏像と深いつながりがある神が入っている、あるいはつながっている」という考えです。

そうだからこそ、成田不動や浅草観音や清水観音や善光寺阿弥陀に祈願すれば応答があって願いがかなうのだと思います。観音菩薩そのものが存在するかどうかはわかりません。ただ浅草観音や清水観音など個別の神々は存在すると思います。

このように既存の仏教宗派は仏像に入っている神々をお祀りしてくれているという、ありがたい側面もあります。神職の方と同様の形で社会に貢献しているのだと思います。ですから誰もが凡夫と思ってあまりお坊さんのことを「生臭」とか「金儲けに走った」とか言わずに暖かい目で見てあげたほうがいいと思います。

  【まとめ】
  見解は各宗派の見解ではなく原始仏教の見解を採用する
  お寺に祀られる仏様の形を取った神々を崇敬してもよい
  聖八支道が歩めるならば神々と協力し合うのは何ら差し支えない





4.教会

原始仏教を信じる人でも今まで通り、教会に礼拝に行って構いません。

イエスやマリアや守護天使や聖人に祈っても構いません。ただイエスやマリアや天使たちは最高神ではなく神々の一人に過ぎません。それがブラフマーか三十三天か四大王天かはわかりません。しかしイエスやマリアや聖人たちはある程度、権能ある神々に違いないということは世界への勢力の張り具合から類推できます。

洗礼や聖体拝領や信仰告白がどうなっているかはわかりませんが、「嘘」になることはやめた方がいいと思います。嘘にならないならば個人の自由です。教会への寄付は問題ありません。クリスマスを楽しんでも全く問題ありません。教会関係者は「原始仏教を信じてイエスの助けを借りるなどけしからん」「洗礼を受けていないやつがどうしてイエスの恩恵に預かれようか」と言うでしょうが、イエスの援助を受ける受けないを決めるのはイエス自身ですから、関係者の意見は関係ありません。

  【まとめ】
  見解は教会の見解ではなく原始仏教の見解を採用する
  教会に祀られるイエス他を崇敬してもよい
  聖八支道が歩めるならば神々と協力し合うのは何ら差し支えない





5.寄付と祈願

ゴータマは「詐欺のニガンタ派」への布施でさえ、「あなたは長くニガンタ派に布施をしてきたので、私のサンガだけでなくそこへも布施を続けなさい」とある在家に言っています。ですから、他の見解の宗教でも気にせず神社・仏閣・教会にいつも通り寄付してください。

また「非正法への布施は布施する人間が量を知りなさい。教えが間違っているからである」とゴータマは言っていますが、神道も日本の仏教各派もキリスト教も「悪行をやめて善行を為しなさい」というのが基本ですから「天国も地獄もありはしない。業の報いもありはしない」という本物の邪見よりもかなりマシな教えですから、気にせずに寄付したいだけ寄付してもあまり問題ないと思います。

祈願については基本的にしないほうがいいと思います。僕は今まで「正しい道に導いてください」とか「真実を知ることができますように」とか、あまり現世利益でない願掛けをしてきたので、悪いことは起きませんでした。しかし、母の友人は代々、ダキニ真天系のお稲荷さまを祀って来ていて、商売は繁盛し家族は昇進しお金はあるのですが、家人が中年で死んだり、腎臓透析になったりしています。「願いはかなうがそれだけでは終わらない」というケースは実在します。

ですから内臓を持ってかれたり、寿命が縮むようなことが嫌な人は神社仏閣・教会でお願い事や祈願や願掛けはしないほうがいいと思います。特に商売繁盛のご利益をお願いするのは基本的に危険だと思います。

出家者は祝詞・真言・祈りの文句は禁止ですが、在家は許されています。お経や念仏を唱えても構いません。誰も傷つかないならばどんな宗教行為も構いません。出家者の宗教行為が禁止されているだけです。



 〔如来・阿羅漢への祈りについて〕

ゴータマや阿羅漢たちにお願い事で祈っていいかどうかは原始仏典にはまったく書いてありません。ただこういうやり取りはあります。「如来は人々からお願いされることを越えている」「先生、正しいお願いです」「では言いなさい」「親が許さない子供を出家させないでください」「わかった」。このように如来や阿羅漢たちはあまり俗世的な利益は世間に与えない場合が多いです。ただアングリマーラが難産の女性をゴータマの助言によって助けたことはあります。

ゴータマや阿羅漢たちは超能力による病気治しをイエスと違って行なっていません。あるいは行なっていたかも知れませんが、記述がありません。確かに「医療行為は出家者は禁止」ですが「神通による病気治しは禁止」という記述はありません。律蔵を読むと「神通ある者が神通を使った場合は無罪である」という記述がよくあります。ですから神通で病気を治すのは許されているのではないかと思います。ただ出家は在家のように義務がないことを尊ぶので病気治しをすると依頼が殺到して自分の不利益になるということがあって、あまり行なわないのだと思います。

いずれにしても涅槃した如来・単独仏陀・阿羅漢たちへの祈りが有効か無効か原始仏典に書いてないのでわかりません。「わからない」というのがこの件に関する結論です。無記に抵触している問題です。







6.結論

  原始仏教を信じる人でも今まで通り、神棚・仏壇に毎日のお供えをしてください。
  また神社・お寺・教会に行って全く問題ありません。
  見解は他宗教・他宗派の見解でなく原始仏教の見解を採用します。
  祈願や願掛けは基本的にしないほうがいいです。
  嘘になるような誓いや契約、約束は避けてください。(破戒でもよい人は除く)
  その上で原始仏教の修行は普通に可能であり、矛盾はありません。
  神々の援助を受けて修行環境を整えて、より一層精進してください。








7.おまけ

これは原始仏教と関係なく僕の考えに過ぎないので参考程度にしてください。神々の援助を受けて、健康と生計が安心になれば修行にも打ち込めるという利益があると考えて、神々の協力を得やすくする方法について書いたものです。

お寺でよくある「浅草観音」「清水観音」「大須観音」という場合、これは「同一の神ではなくそれぞれ別々の神」だと僕は考えています。浅草観音を勧請したお寺は、やはり「浅草」と名前を観音の前につけて「浅草観音」として他の観音さまとの差別化を図っています。この名前はお寺の経営上の都合だけでなく、実際神々もその通りに担当・眷属を全国各地に配置していると僕は考えています。本社と支社の関係に似ています。

お地蔵さんは非常に多く、それぞれが単体のみで支社を持つほどはない場合が多いと僕は考えています。お寺に祀られる仏さまの場合は、「◎◎観音」「◎◎不動」などのように「◎◎」の部分が非常に重要だということがわかると思います。

神社の場合は「神明社」「八幡社」というふうに観音などと違い重複する名前がないのでわかりやすいと思います。ただやはり普通の神社にはその土地の精霊がいるのであり、その上司が「八幡」とか「天神」だったりするのだと思います。ですからフランチャイズみたいなもので総本宮が本社で地方の神社はそれぞれの土地の神が「店長」としてメインで活動しているのだと思います。僕は霊能がないので類推ですが。「稲荷社」「弁天社」などは特にお地蔵さんと同様にその土地その土地だけを担当しているという感じが強いと思います。

神々の世界も国家や会社と同じような仕組みになっていて、神の心も人間の心と同じではないかと僕は考えています。元は人間だった神様も多いですから。またそこに祀られている神が常に一柱であるとは考えにくいことから「眷属さま、ありがとうございます」という言葉を祈りの中に入れるもよいと思います。

書籍を読むとやはり色々な守護霊は実在するようですので、たまには慈心を修するのもよいかと思います。霊能力で見えればいいのですが。

基本として「今住んでいるところの神様に敬意を払う」というのがあると思います。日本では神社の氏神さまが多いですし、海外へ行けば教会やモスクなどになると思います。参るときは神社・仏閣・教会それぞれの形式に従って身を清めて心を正すのが基本だと思います。二礼拍手一礼や合掌などです。恥ずかしがってお辞儀するよりも迷いなき身の所作が見た目にも立派かと思います。賽銭は捨てるように投げるのではなく、丁寧に恭しく「きっと善い報いがあるぞ」と喜びに輝きながらやるのがこれまた見た目にも立派かと思います。原始仏典にもお布施は自ら丁寧に心から喜んで行なうと容姿もよくなり、報いが来たときも楽しもうという気になると書いてあります。

祈るときはまず「いつも何かと面倒を見ていただいてありがとうございます。知って、また知らずに行なってしまっている日頃のご無礼ご粗末をお許しください」と感謝とお詫びだけを言うのがよいと思います。お願い事は基本的にしないほうがいいと思います。そこの神様と長く付き合う気がないならなおさらです。

もしお願いごとをしたら、同じお願いを他の神様にしないことも大事だと思います。「あの人、私だけでなく他の人にも同じことをお願いしていたんだ」と知ったら誰でも不快に感じるのは自然なことです。浮気は厳禁です。願いごとがかなったらお礼参りです。お礼参りをしないとお願いを聞いてくれない可能性が高くなると思います。いずれにしても「どの神様にお願いしているか明確にすることが大事」だと思います。浅草観音と清水観音を同じ観音だと思って双方に同じお願い事をしてしまうのはこちらの不覚だと思います。

あまりいい噂を聞かない神様への願掛けはしないほうがいいと思います。お稲荷さまは怖いです。祟りがない神様にお願いしたほうが無難です。邪まな心でのお願い事はかなってもかなわなくてもあまりよい結果にならないと思います。正しい願い事しかしないことが肝要だと思います。正しい神にお願いごとをすると「自分の思い通りにはなっていないけれど、問題は解決していた」という結果になることが多いと思います。

「長続きする信心が大事」なので、感謝の参拝が面倒くさいときは無理をしないことを優先します。

神との関係は目上に対する人間関係と同じだと思います。阿羅漢になってしまえば神々の方が格下になるのですが。大切なことは礼儀と愛嬌だと思います。礼儀で神に対して悪事を為さず、素直な感謝や神を念じる頻度などの愛嬌で神に対して善事を為すという感じです。誰でも礼儀正しくて愛嬌がある人間のお願いなら、かなえてあげたいと思うものだと思います。礼儀正しく愛嬌ある愛される人間になれば毎日楽しいと思います。

神々への感謝に危険はないと思いますが「願掛け」や「お願い」には危険が伴うことがあります。邪神や魔神に内臓を持ってかれないように気をつけてください。自己責任でお願い事はしてください。神社仏閣の闇レベルと光レベルを感じ取るようにすれば、どこに魔神・邪神がいるか何となくわかると思います。

神社・仏閣への信心は「一人で始めて一人でやめれて、お金もかからず、人間関係のいざこざもない」のでおすすめです。


以上は原始仏教とは関係ない話です。



本論をもう一度確認すると、原始仏教は「修行の教え」ですので神々との関係構築は自由です。今まで通り、神社に参拝し、お寺に詣り、教会に礼拝に行って、信心して神々に礼儀を尽くしてください。そこの教えは見解として受け入れずに原始仏教の見解を堅持すれば、何の問題もありません。


「毎日のお供え」は原始仏典でも特に賞賛する布施の一つです。

コメント(11)

原始仏教に興味を持っている人がいたずらに排他的にならないようにと思って書きました。参考にしていただけてありがたいです。
いい指摘だと思って原文を見てみました。苦行者たちとゴータマのやりとりの経です。


長部経典>第25 ウドゥンバリカ・スッタ

「・・・・・・ 
78.ニグローダ、あるいはあなたはこう思うかも知れない。
 『私たちに弟子であることをやめさせるために、沙門ゴータマはこのように言うのだ」と。
 ニグローダ、そのように見てはならない。あなたたちの師、彼をそのままあなたたちの師としなさい。
 ニグローダ、あるいはあなたはこう思うかも知れない。
 『私たちの教えを滅ぼそうと欲して、沙門ゴータマはこのように言うのだ」と。
 ニグローダ、そのように見てはならない。あなたたちの教え、それをそのままあなたたちの教えとしなさい。
 ニグローダ、あるいはあなたはこう思うかも知れない。
 『私たちの修行生活を滅ぼそう欲して、沙門ゴータマはこのように言うのだ」と。
 ニグローダ、そのように見てはならない。あなたたちの修行生活、それをそのままあなたたちの修行生活としなさい。
 ニグローダ、あるいはあなたはこう思うかも知れない。
 『私たちの悪法と師の悪に数えられるもの、それらを確立させようと欲して沙門ゴータマはこのように言うのだ」と。
 ニグローダ、そのように見てはならない。あなたたちの悪法も師の悪に数えられるもの、それらをそのままにしなさい。
 ニグローダ、あるいはあなたはこう思うかも知れない。
 『私たちの善法と師の善に数えられるもの、それらを遠離させようと欲して沙門ゴータマはこのように言うのだ」と。
 ニグローダ、そのように見てはならない。あなたたちの善法も師の善に数えられるもの、それらをそのままにしなさい。

 ニグローダ、このように私は弟子であることをやめさせるためにこう言うのではないし、
 教えを滅ぼそうと欲してこう言うのではないし、
 修行生活を滅ぼそうと欲してこう言うのではないし、
 悪法と師の悪に数えられるものを確立させようと欲してこう言うのではないし、
 善法と師の善に数えられるものを遠離させようと欲してこう言うのではない。
 ニグローダ、悪法を断たないならば汚れがあり、再生があり、苦悩があり、苦の報いがあり、未来に生老死がある。それらを断つために私は法を説く。
 あなたたちがその通りに修行するならば、汚れの法は断たれ、清浄な法を増大し、智慧を円満にし広大となることを、現世において自ら超知し実証し具足して住するだろう。

79.このように言われて、彼ら遍歴者たちは沈黙し困惑し落胆しうつむき呆然として語ることができずに座っていた。彼らの心がマーラによって縛られていたようであった。
 そこで先生はこう思った。
「この一切の愚か者たちは悪しき者に触れらている。ここにはこう思う者が一人もいない。
 『さあいまだ義を悟ってもいない私は沙門ゴータマの梵行を行じよう。どうすれば七日で成し遂げることができるだろうか』と。」
 そこで先生はウドゥンバリカーの遍歴者の園で獅子吼して空中に飛び上がってギッジャクータ山に戻った。またサンダーナ居士もすぐにラージャガハに戻った。  終」
   『南伝大蔵経8 長部経典3』大蔵出版 P70−72



ゴータマの教えは宗派や派閥や集団や仲間や形式や人からの評価や社会的位置とはまったく関係ないことがよくわかります。「現実に悪を断ち、心の汚れを断てば、それでよいのだ」ということです。原始仏教は確かに「純粋に自己修練の教え」であると思います。
自分は火界の印を勝手に組んで真言を唱えていましたが、
こういうのは勝手に勉強して組んではいけないと聞きました。
印は仏様から許しを得て、組むものだと。越サンマヤか何かの
罪になるそうです。
ペコちゃん様いつもありがとうございます。
そのような各宗教・各宗派の個別の事柄は、現実にそうなのかどうか各自で確認することが大切だと思います。確認しようとして禍いが降り掛かってもいけませんので、「触らぬ神に祟りなし」でもよいと思います。「タブー」とか「禁忌」と呼ばれる霊的・神的な事柄は、迷信もあれば真実もあり、一部正しく一部間違っているということもあると思います。

僕の見解では在世中の如来でも涅槃後の如来でも、印や真言を教えるということはないと思いますので、「如来の形を取った神々(今後は如来と区別するために『仏神』と表記します)」がそういった密教的な事柄を啓示したのだと思います。そういう約束ならばその約束を守った方がいいでしょうし、関わりたくない人は関わらないでいいと思います。関わりを断ることができないような土地や人間関係からは距離を取った方がいいと思います。

心霊番組でお墓に小便をかけた少年が祟られるという話もありました。事実かわかりませんが道理としてはあり得ると思います。また名指しで神々に向かって呪いの言葉を吐けば、神は罰を下さないにしても眷属が何かをするかも知れません。印もまた何らかの資格や手続きを経た人しか結んではならないと神々か霊たちが考えているならば、その仏神たちに無視されるか罰が下るかするでしょう。

いずれにしても神々や霊たちを含めて他者を害さないことを心がければ問題ありません。人畜無害を達成して四神足をマスターすればそれらの各宗教・各宗派の教えの真偽を自ら確認できると思います。超能力・霊能力・神通力がないとこういったことを確認できませんので、これは求道者にとって大きな障害です。僕も精進しなければいけないと自戒せざるを得ません。

僕は今ではお寺でその仏神の真言を心の中で七回とか二十一回唱えることはありません。それはその仏神への想いを示すための形式ではあるでしょうが、お百度参りみたいなものだと思います。僕は代わりに慈心を修したいだけ修します。もちろん、唱えてしかも慈心も修するのもよいと思います。どの神々とどれだけ仲よくしたいかは各個人の趣味の問題だと思います。
ナチョ!さん、励ましありがとうございます。嬉しく思います。
>>7
 他者を害しなければ良いというか、自身の器を超えた事をすれば、時間の無駄で自身の成長の妨げになることが問題にされているようです。それは自分自身を害してますから。自身を害することはつまり、他者を害することに繋がると思います。
 御眷属の考えもあるでしょうから、そこがわからないですね。
>いたずらに排他的にならないようにと思って書きました

実家が檀家になっているお寺にたいしていたずらに排他的になっていました。(苦笑)
反省し、考えを改めます。

またしてもとてもタイミングよく、とても参考になりましたありがとうございました。
それはとてもよかったです。僕も大変嬉しく思います。美徳の風を吹かせて行きたいですね。

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