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原始仏教コミュの如来十号1

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如来の十号について、できるかぎり原始仏典における定義を追求していく方向性で書きました。





  1.阿羅漢     貪尽・瞋尽・癡尽の者
  2.三摩三仏陀   先覚者  
  3.明行足     四禅三明六通の者
  4.善逝      貪尽不生・瞋尽不生・癡尽不生の者
  5.世間解     五蘊などの世間法の熟知者
  6.無上士     如来・阿羅漢・三摩三仏陀
  7.調御丈夫    有学を順序よく学ばせて行く者
  8.天人師     神々と人々の師
  9.仏陀      独力で覚った者
  10.先生      バガヴァント 
  00.如来      その通りに覚り、語り、行い、実現する者
    如来転生法   大人二十戒 → 三十二相+出家 → 如来






1.阿羅漢  貪尽・瞋尽・癡尽の者

阿羅漢:アラハント、arahant、「価値ある人」。「応供」とも。アラハティ(arahati)が「価値ある、値する」を意味することから。

原始仏典における定義は以下の通りです。


「   第二 阿羅漢性所問

315.友サーリプッタ、「阿羅漢性、阿羅漢性(アラハッタ、阿羅漢位、阿羅漢果)」と言われる。
 友よ、何が阿羅漢性か。
 友よ、貪りが尽き、瞋りが尽き、癡かさが尽きること。これが阿羅漢性と言われる。
 友よ、この阿羅漢性を実証する道、道跡はあるのか。
 友よ、この阿羅漢性を実証する道、道跡はある。 
 友よ、何がこの阿羅漢性を実証する道であり、道跡なのか。
 友よ、この聖なる八支の道はこの阿羅漢性を実証する。
 即ち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
 友よ、この道、この道跡がこの阿羅漢性を実証する。
 友よ、この阿羅漢性を実証する道は善である。道跡は善である。
 友サーリプッタ、また不放逸となるのに十分なものである」
   『南伝大蔵経15 相応部経典4』大蔵出版 P390−391 に相当


この記述から、阿羅漢とは「貪尽・瞋尽・癡尽の人」です。この点においては如来も弟子も同じ阿羅漢です。




2.三摩三仏陀  先覚者

三摩三仏陀:サンマー・サンブッダ、sammā sambuddha、「正しく覚った人」。伝統的には「三藐三仏陀(さんみゃくさんぶっだ)」と表記されますが、「サンマー」の音は「三藐」よりも「三摩」の方がよりわかりやすく想起しやすいだろうと考えて僕が勝手に造語を造りました。辞書には「サンマー」は「正しく、完全に」と書いてあり、「サンブッダ」は「よく覚った、正覚者、等覚者」と書いてあります。僕は「等覚者」という表現をやめようと思っています。「等」という意味が現代の人には馴染みにくいし、意味が曖昧だからです。ですから、三摩三仏陀を訳すときは「正覚者」を採用したいと思います。

原始仏典における定義は以下の通りです。

「   第六 正覚者

 サーヴァッティ。
 比丘たちよ、如来・阿羅漢・三摩三仏陀は色を厭患・離貪・滅・無取・解脱し、三摩三仏陀と言われる。
 比丘たちよ、慧解脱する比丘もまた色を厭患・離貪・滅・無取・解脱するが、慧解脱者と言われる。
 比丘たちよ、如来・阿羅漢・三摩三仏陀は受を厭患・離貪・滅・無取・解脱し、三摩三仏陀と言われる。
 比丘たちよ、慧解脱する比丘もまた受を厭患・離貪・滅・無取・解脱するが、慧解脱者と言われる。
 比丘たちよ、如来・阿羅漢・三摩三仏陀は想を厭患・離貪・滅・無取・解脱し、三摩三仏陀と言われる。
 比丘たちよ、慧解脱する比丘もまた想を厭患・離貪・滅・無取・解脱するが、慧解脱者と言われる。
 比丘たちよ、如来・阿羅漢・三摩三仏陀は行を厭患・離貪・滅・無取・解脱し、三摩三仏陀と言われる。
 比丘たちよ、慧解脱する比丘もまた行を厭患・離貪・滅・無取・解脱するが、慧解脱者と言われる。
 比丘たちよ、如来・阿羅漢・三摩三仏陀は識を厭患・離貪・滅・無取・解脱し、三摩三仏陀と言われる。
 比丘たちよ、慧解脱する比丘もまた識を厭患・離貪・滅・無取・解脱するが、慧解脱者と言われる。
 比丘たちよ、ここに如来・阿羅漢・三摩三仏陀と慧解脱する比丘とは何の差別、何の特相、何の相違があるのか。
 先生、私たちにおいて法は先生を根とし、先生を眼とし、先生を依りどころとしています。
 先生、どうか先生がこの説の義を明らかにしてください。比丘たちは先生から聞いて受持するでしょう。
 比丘たちよ、それならば聞きなさい。善く作意しなさい。私は説こう。
 「先生、わかりました」とその比丘たちは先生に答えた。先生はこう言った。
 比丘たちよ、如来・阿羅漢・三摩三仏陀は、生じていない道を生じさせ、生まれていない道を生まれさせ、説かれていない道を説き、道を悟り、道を賢知し、道を完全賢知する。
 比丘たちよ、(一方)弟子たちは現在、道に従って住する者たちであり、後に成就する者たちである。
 比丘たちよ、これが如来・阿羅漢・三摩三仏陀と慧解脱する比丘との差別、特相、相違である」
   『南伝大蔵経14 相応部経典3』 P102-103 に相当


この記述から三摩三仏陀とは「先覚者」であり、慧解脱者とは「後覚者」であることが明らかです。単独仏陀である独覚も「覚者」ですが、教えを説きませんので「先も後もない」と思ってあえて三摩三仏陀を「先覚者」としています。

   ・ブッダ4 「如来と阿羅漢の違い」 (南伝14 P102−103)
    http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=27381015&comm_id=951429




3.明行足  四禅三明六通の者

明行足:ヴィッジャー・チャラナ・サンパンナ、vijjā caraṇa sampanna、「明知と行を具えた人」。ヴィッジャーは「明知」、チャラナは「行・実践」、サンパンナは「具足した」。

原始仏典における定義としては長部経典第3経「アンバッタ経」がまさにこの「明と行」を主題にしています。内容を引用すると冗長なので僕が省略して紹介します。

内容は、バラモン至上主義者のアンバッタ青年に対し、ゴータマが「生まれとしてはバラモン(宗教家)よりもカッティヤ(貴族・武士)の方が優れている」とし、さらに「生まれではカッティヤが最上だが、神々と人間の中においては明行具足者が最高者である」と説きます。そこでアンバッタが「最高者の条件であるその明(ヴィッジャー)とは何か。その行(チャラナ)とは何か」と聞きます。ゴータマはこのように応えます。
「・・・第一禅那を具足して住する。これも行の一つである。
 ・・・第二禅那を具足して住する。これも行の一つである。
 ・・・第三禅那を具足して住する。これも行の一つである。
 ・・・第四禅那を具足して住する。これも行の一つである。
 アンバッタ、これがその行(チャラナ)なのである。
 ・・・(身体と心は別であるが心は身体に付着していると知る記述)・・・これも明の一つである。
 ・・・(意から成る身体を化作する幽体離脱的な記述)・・・これも明の一つである。
 ・・・(神足通の記述、分身・飛行・すり抜け・地中・水中・梵天界にまで到達)・・・これも明の一つである。
 ・・・(天耳通の記述、神々と人間の遠近両方を聞く)・・・これも明の一つである。
 ・・・(他心通の記述、貪瞋癡の有無など他者の心を知る)・・・これも明の一つである。
 ・・・(宿明通の記述、無限の前世と多くの劫を思い出す)・・・これも明の一つである。
 ・・・(天眼通の記述、生ける者の輪廻を知る)・・・これも明の一つである。
 ・・・(漏尽通の記述、苦の四諦と漏の四諦を知って解脱知見)・・・これも明の一つである。
 アンバッタ、これがその明(ヴィッジャー)なのである。
 アンバッタ、この比丘は「明具足」(ヴィッジャー・サンパンナ)とも言われ、
 「行具足」(チャラナ・サンパンナ)とも言われ、
 「明行具足」(ヴィッジャー・チャラナ・サンパンナ)とも言われる。
 アンバッタ、この明具足と行具足とは別の明具足も行具足も存在しないし、あるいはこれよりさらに上のものも存在しないし、これよりさらに勝れたものもまた存在しない」
   『南伝大蔵経1 長部経典1』大蔵出版 P150−151 に相当


最後の「これよりさらに勝れたものはない」という断定的な発言によって「だからこそ、明行具足者は最高者なのだ。これよりも上の行も明も存在しないから」という結論が示されています。この記述から行は「四禅」、明は「六神通」であることが明らかです。ただ六通のうち先の三つを省いて宿明通・天眼通・漏尽通を三明(テーヴィッジャー)と言いますが、これだけでも「明である」という記述は多くあります。ですから、これらの記述を全部採用して結論としては、「明行具足は四禅三明六通者」とまとめてよいとおもいます。




4.善逝  貪尽不生・瞋尽不生・癡尽不生の者

善逝:ぜんぜい。スガタ、sugata、「善いところへ行った者」。「ス」は「善い」で「ガタ」は「行った」。善到者。

原始仏典における定義は以下の通りです。

「   第三 法語者所問

316.友サーリプッタ、誰が世間において説法者なのか。
 誰が世間において善行道者なのか。
 誰が世間において善逝なのか。
 友よ、貪りを断つために法を説き、瞋りを断つために法を説き、癡かさを断つために法を説く者、彼は世間において法説者(ダンマヴァーディン)である。
 友よ、貪りを断つために行道し、瞋りを断つために行道し、癡かさを断つために行道する者、彼は世間において善行道者(スッパティパンナ)である。
 友よ、貪りを断ち、根を切断し、ターラの基と作し、存在しないものと作し、未来に生じない法となっており、
 瞋りを断ち、根を切断し、ターラの基と作し、存在しないものと作し、未来に生じない法となっており、
 癡かさを断ち、根を切断し、ターラの基と作し、存在しないものと作し、未来に生じない法となっている者、
 彼は世間において善逝である。
 友よ、この貪・瞋・癡を断つための道、道跡はあるのか。
 友よ、この貪・瞋・癡を断つための道、道跡はある。
 友よ、何がこの貪・瞋・癡を断つための道であり、道跡なのか。
 友よ、この聖なる八支の道はこの貪・瞋・癡を断つ。
 即ち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
 友よ、この道、この道跡がこの貪・瞋・癡を断つ。
 友よ、この貪・瞋・癡を断つための道は善である。道跡は善である。
 友サーリプッタ、また不放逸となるのに十分なものである」
   『南伝大蔵経15 相応部経典4』大蔵出版 P391−392 に相当


この記述から善逝は「貪尽不生・瞋尽不生・癡尽不生」であることが明らかです。阿羅漢もまた「貪尽瞋尽癡尽」ですが「未来不生」であるとは限らないということです。そこに差異があります。阿羅漢には「不動心解脱の阿羅漢」と「不動心解脱でない阿羅漢」の二種類があって、前者は堕落の可能性があります。ただ僕の考えとしては「慧解脱=不動心解脱」なので、「癡尽=慧解脱=不動心解脱」で同じことを言っていると考えたいです。しかし、ここでは念のために原始仏典の記述通りに表記します。善逝は三摩三仏陀にも弟子にも適用されます。「善逝の律」という単語の場合は、三摩三仏陀を指すニュアンスが強いです。「善逝」の訳語は「善く逝った」という「ご臨終の際が善かった」みたいな意味に受け取られがちで僕は好まない訳語です。できれば「善到者」を使いたいです。

    ・阿羅漢の障害
     http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=33730496&comm_id=951429




5.世間解  五蘊などの世間法の熟知者

世間解:ローカヴィドゥー、lokavidū、世間(ローカ)をヴィドゥ(賢知)した者、

原始仏典における定義としては「世間解」そのものに相当する定義はないのですが、それに接近していると考えるものを引用します。

「   第二 花

94.サーヴァッティ因。
 比丘たちよ、私は世間と争論をしないが、世間は私に争論をする。
 比丘たちよ、法を説く者は世間のいかなる者とも争論をしない。 
 比丘たちよ、世間の賢者たちが「無い」と認めていることについては、私もまたそれを「無い」と言う。
 比丘たちよ、世間の賢者たちが「有る」と認めていることについては、私もまたそれを「有る」と言う。
 比丘たちよ、何が世間の賢者たちが「無い」と認め、私もまたそれを「無い」と言うことなのか。
 比丘たちよ、色が永遠であり、堅固であり、常住であり、変化しない法であるということは、世間の賢者たちは「無い」と認め、私もまたそれを「無い」と言う。
 比丘たちよ、受が永遠であり、堅固であり、常住であり、変化しない法であるということは、世間の賢者たちは「無い」と認め、私もまたそれを「無い」と言う。
 比丘たちよ、想が永遠であり、堅固であり、常住であり、変化しない法であるということは、世間の賢者たちは「無い」と認め、私もまたそれを「無い」と言う。
 比丘たちよ、行が永遠であり、堅固であり、常住であり、変化しない法であるということは、世間の賢者たちは「無い」と認め、私もまたそれを「無い」と言う。
 比丘たちよ、識が永遠であり、堅固であり、常住であり、変化しない法であるということは、世間の賢者たちは「無い」と認め、私もまたそれを「無い」と言う。
 比丘たちよ、何が世間の賢者たちが「有る」と認め、私もまたそれを「有る」と言うことなのか。
 比丘たちよ、色が無常であり、苦であり、変化する法であるということは、世間の賢者たちは「有る」と認め、私もまたそれを「有る」と言う。
 比丘たちよ、受が無常であり、苦であり、変化する法であるということは、世間の賢者たちは「有る」と認め、私もまたそれを「有る」と言う。
 比丘たちよ、想が無常であり、苦であり、変化する法であるということは、世間の賢者たちは「有る」と認め、私もまたそれを「有る」と言う。
 比丘たちよ、行が無常であり、苦であり、変化する法であるということは、世間の賢者たちは「有る」と認め、私もまたそれを「有る」と言う。
 比丘たちよ、識が無常であり、苦であり、変化する法であるということは、世間の賢者たちは「有る」と認め、私もまたそれを「有る」と言う。
 比丘たちよ、世間には世間法が有り、それを如来は覚り確認し、覚って確認したそれを告げ、説き、知らしめ、確立し、開顕し、分別し、明瞭なものとする。
 比丘たちよ、何が世間における世間法であり、それを如来は覚り確認し、覚って確認したそれを説き、教え、設定し、確立し、開顕し、分別し、明瞭なものとするのか。
 比丘たちよ、色は世間における世間法であり、それを如来は覚り確認し、覚って確認したそれを説き、教え、設定し、確立し、開顕し、分別し、明瞭なものとする。
 比丘たちよ、如来によってこのように説かれ、教えられ、設定され、確立され、開顕され、分別され、明瞭なものとされたのに、知らず見ない者がいる。
 比丘たちよ、その愚か者であり、凡夫であり、盲目であり、目が無く、知ることがなく、見ることがない者に私はこれ以上何を為すのか。
 比丘たちよ、受は世間における世間法であり、それを如来は覚り確認し、覚って確認したそれを説き、教え、設定し、確立し、開顕し、分別し、明瞭なものとする。
 比丘たちよ、如来によってこのように説かれ、教えられ、設定され、確立され、開顕され、分別され、明瞭なものとされたのに、知らず見ない者がいる。
 比丘たちよ、その愚か者であり、凡夫であり、盲目であり、目が無く、知ることがなく、見ることがない者に私はこれ以上何を為すのか。
 比丘たちよ、想は世間における世間法であり、それを如来は覚り確認し、覚って確認したそれを説き、教え、設定し、確立し、開顕し、分別し、明瞭なものとする。
 比丘たちよ、如来によってこのように説かれ、教えられ、設定され、確立され、開顕され、分別され、明瞭なものとされたのに、知らず見ない者がいる。
 比丘たちよ、その愚か者であり、凡夫であり、盲目であり、目が無く、知ることがなく、見ることがない者に私はこれ以上何を為すのか。
 比丘たちよ、行は世間における世間法であり、それを如来は覚り確認し、覚って確認したそれを説き、教え、設定し、確立し、開顕し、分別し、明瞭なものとする。
 比丘たちよ、如来によってこのように説かれ、教えられ、設定され、確立され、開顕され、分別され、明瞭なものとされたのに、知らず見ない者がいる。
 比丘たちよ、その愚か者であり、凡夫であり、盲目であり、目が無く、知ることがなく、見ることがない者に私はこれ以上何を為すのか。
 比丘たちよ、識は世間における世間法であり、それを如来は覚り確認し、覚って確認したそれを説き、教え、設定し、確立し、開顕し、分別し、明瞭なものとする。
 比丘たちよ、如来によってこのように説かれ、教えられ、設定され、確立され、開顕され、分別され、明瞭なものとされたのに、知らず見ない者がいる。
 比丘たちよ、その愚か者であり、凡夫であり、盲目であり、目が無く、知ることがなく、見ることがない者に私はこれ以上何を為すのか。
 比丘たちよ、たとえばウッパラやパドゥマやプンダリーカは水の中で生じ、水の中で成長し、水の中から上がって立ち、水によって取られない。
 比丘たちよ、まさにこのように如来は世間に生じ、世間で成長し、世間に勝利して住し、世間に取られない」
   『南伝大蔵経14 相応部経典3』大蔵出版 P216−219 に相当


また他の「世間」に関する記述も参考に載せておきます。内容は僕が省略してまとめていますので、原始仏典そのままの記述ではありません。
・「私は世間の味・患・出離を探求し、覚ったから無上の正しい覚りを宣言した」南伝17・P427−429
・「聖律(聖者の教え)において世間とは五妙欲を言う」南伝22上・P129
・「六根と六境によって六識が生じ、三つが和合して触がある。触を縁として受があり、受を縁として愛があり、愛を縁として取があり、取を縁として有があり、有を縁として生があり、生を縁として老死・愁悲苦憂悩が生じる。これが世間の集である。しかし、六根と六境によって六識が生じ、三つが和合して触がある。触を縁として受があり、受を縁として愛があるが、その愛の無残・離貪・滅によって取の滅があり、取の滅によって有の滅があり、有の滅によって生の滅があり、生の滅によって老死・愁悲苦憂悩が滅する。このようなものが全苦蘊の滅である。これが世間の滅である」南伝13・P107−109.南伝15・P141−142
・「六根・六境・六識・六識法を世間、また世間の名義がある。しかし、それらがないところには世間なく、世間の名義もない」南伝15・P64
・「破壊する。それゆえに世間と言われる。何が壊れるのか。六根・六境・六識・六触・六触所生の楽受苦受不苦不楽受、これらは壊れる。ゆえに世間と言われる」南伝15・P83−84
・上と同主旨の内容「壊敗の法ゆえに世間と言われる。根境識触受は壊敗の法であるがゆえに」南伝15・P86


   (続く)

コメント(5)

21歳なら昭和最後の世代に近いですね。

四諦を聞けた人はラッキーだと思います。ゴータマが道を生じさせてくれたので。今は像法ですが、その悪貨の中にある純金部分に気づく人はたまにいるのでまだ初転法輪以来の恩恵は細々と続いています。しかし、教えは生じたものですのでいずれ滅します。正法を説く人と理解する人が滅したときは完全に滅します。それは多くの人にとって不利益ですが、必然ですし、度を越して悲しむこともありません。

教えが滅しても法はそのままであり、宇宙の法則もまたそのままあります。教えがない時代であっても、ある生ける者が苦からの脱出を求める限りはその苦しみからの脱出を知ってその苦しみの分からは確かに脱出するでしょう。その中の特に優れた生ける者は「全ての苦しみからの脱出」を求めるでしょう。苦しみは不愉快なものですから、その苦の感受を原因として苦からの脱出への欲求が生じます。その欲求を原因として努力が生じ、十分な努力が生じたときはそれを原因として「全ての苦しみからの脱出法の智」が生じるでしょう。そのときは、如来になるにしろ独覚になるにしろ、一人のブッダが再び誕生します。

宇宙は放っておいても如来や単独仏陀は出て来ますし、如来たち同士でも様々な個性の差や優劣があるでしょう。如来がいてもいなくても苦しみからの脱出の道はありますので、努力する者はそこに達します。しかし、私たちはラッキーなので努力せずに道を知り、後は成就するだけです。

如来は不死の遺伝子を説法という言葉に載せて周囲に放ちます。聖者の卵である人間だけがその遺伝子と結合するでしょうが、卵が整っていない人は無精卵としてその一生を終わるでしょう。確かにゴータマの口からこの時代の預流者たちは生まれて来たと言えると思います。それゆえに「ゴータマの子供たち」です。不死の身を得るのは全輪廻中、一度しかありません。流れに入ったときは受精したのであり、流れに入った者たちは胎児として修行中であり妊娠中です。時が満ちて漏が尽きれば阿羅漢となり出産です。母乳から離れて自分の足で歩いて自分で生きて行けるようになれば、それは「不動心解脱」であり、もはや再び渇愛が生じることはないでしょう。さらに後は八解脱の修行などまだまだ上がありますから、それこそ楽しい人生の始まりです。

無我がまだわからない方は単純に考えていただければと思います。「無我、無我というがこれは私ではないのか」という「その私も無我ではないのか」と心の中で自問自答できれば、我見を断ちます。Kazukiさんは「人生」に自己を見いだしがちだったのかも知れません。僕は以前は「力だけは自分のものだろう」と考えていましたが、力もまた生滅するゆえに無我であることを見、力を行使する意志もまた変化し生滅することを見て後は、迷いがなくなりました。力は過去の行の集積であり、意志は過去の行の集積の報いとして現れて来るもの、いずれも生滅し限定されたものであり、変化するもの。このように見ているので再びそれを「これは自分であり自分のものだ」と取ることはありません。

「これは自分のものでしょう」という「それも無我ではないのか」と自問自答すれば、無我性の証拠が残り、自分のものであるという根拠は消えて行きます。疑いが滅したときは流れに入ります。

「流石にこれは自分のものだよ」という「それも無我ではないのか」と気が向いたらお茶でも飲みながらやってみてください。
中部経典第67経「チャートゥマ経」(南伝10 P268)においてゴータマはチャートゥマーの大声を挙げる比丘たちを追放しました。「あの漁師が魚を獲るときのような声は何だ。去れ。私はあなたたちを去らせる。あなたたちは私の前にあるな」と言って。

ゴータマはサキャ族とブラフマー・サハンパティに宥められて、やっと思い直して比丘たちを呼び戻す気になりました。モッガーラナが比丘たちを迎えに行きました。ゴータマはサーリプッタとモッガーラナに「私が比丘たちを追放したときあなたたちはどう思ったか」と質問しました。

サーリプッタ「先生は現法楽住(四禅)に住する。私もそうしようと思いました」
ゴータマ「待ちなさいサーリプッタ。二度とそのように思ってはならない」
モッガーラナ「先生は現法楽住に住する。私とサーリプッタは比丘たちを擁護しようと思いました」
ゴータマ「そうだ。そうなのだモッガーラナ。実に私もサーリプッタもモッガーラナも比丘たちを擁護すべきなのだ」。

こうしてゴータマは追放した比丘たちを受け入れて説法しました。


僕はこの話をたまに思い出します。ゴータマの三行も完璧ではなく、如来でさえ反省します。如来の称号の持ち主を絶対者としてイメージするのは間違いだと思います。宇宙内の因果連鎖体としての如来の六触処もまた外界の影響を受けます。内界も。不浄想を称賛して三ヶ月引きこもって出て来たら、比丘たちが自分の肉体を嫌悪して自殺していたという話も同じです。ゴータマにも反省があり、正覚してからも修行があります。正覚の直後に完全無欠の絶対存在になるというのは因果の流れから考えても背理です。全ての力は徐々に徐々に鍛え上げられるものです。一気に最高の力を獲得するということはあり得ません。

原始仏典にはサーリプッタの前世譚はありませんが、ゴータマと同じように善き前世で悪趣は少なかったと思います。一方でモッガーラナの前世はマーラ・ドゥーシンであり、死して長い間地獄で苦しんだゆえに、モッガーラナのほうが二人よりも優しかったのだと思います。モッガーラナの優しさがゴータマとサーリプッタを一時的にでも上回ったという事実がこの経典で描かれています。僕は魔王を目指せとは言いませんが(不利益と苦が多く割に合わないと思うので)、悪魔には悪魔なりの苦しみと悲しみがあるということだと思います。

僕は全ての経験に意味があるとは言いません。全ての経験には結果が伴うのであって、意味はそれぞれの意識が設定することであり、別々のことです。しかし人には人それぞれの悲しみと苦しみがあり、それはそれぞれ現実であり真実であり否定しても確かに事実としてあるものです。そういう経験、そういう六触処の内容の集積による諸行としての自己を生かし切るためにも、八正道の修習があると思います。
なぜなら正しい努力によって力を獲得すれば、かつて自分が苦しんだことと同じことで苦しむ人への自然に生まれる哀れみのままにその人たちを救えるからです。モッガーラナのように。苦しみと悲しみの経験を他者においては哀れみの深さとして昇華し、自己においては漏尽力として昇華させたときにはじめて「あの苦しみの日々が報われた」と言えると思います。そのときは「あの経験には意味があった。こうして漏尽と利他の原因となったから。あの経験は今ここで生かされた」と思えます。善を得るまではまだ「あの過去は報われた、あの日々は無駄ではなかった」とは言い切れません。

因果連鎖上、人は自分と同種の人間を憐れむのが必然です。自分がかつて体験したような色の状態を見て、名である受・想・行・識を連想し、そのヴィジョンが自己の体験と結びつけられて心情的に共感するからです。そして他者の苦と不利益を事実に沿った想であれ、事実に沿ってない想であれ、イメージされれば、当時その苦しみから脱出を願ったように今度も同様にその他者をこの苦しみから脱出させようという意欲が連鎖して生じやすくなります。この一連の心の動きはとても自然なものです。しかし、他者と自己を分離したものととらえた場合、心の動きは真逆となり「自分もその苦しみを味わった。だからもお前もこの苦しみを味わって当然だ」という発想に行き着きます。これもまた自然に生じるものですが、これは悪見であり悪思です。


共感と同情という善性を生じやすいのは自分と似ている人です。だから僕は人は自分と似た人たちから助けていくのが、自分も心から自然に喜んでできる善行の基本だと思っています。「心から自然に喜んで人助けできる」というのがポイントだと思います。同類相憐れむ、自他を傷付けずに援助の手を差し伸べるなら、未来に苦はなく楽の報いを期待できると思います。またもし自分と似ていない人が苦しんでいても、その人の涙には原因があると信じて、その涙の原因を追求すれば、人の涙を笑うこともなくなると思います。悪行を追求して断罪することを喜ぶよりは、悪行を行なう人の未来を哀れむほうが自分にとって利益があります。

タターガタの称号を持つゴータマにも反省と改善があります。これを押さえておくと如来への無駄な神格化をすることはなくなります。念仏の一環にもなります。ゴータマ・シッダッタの修行もまた一々のものであったことを思えば、今日も修行し明日も修行することに堪えます。阿羅漢も凡夫も全ては単なる無常なる諸行の集積であると見れば、自分にもできるはずだと思えます。

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