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原始仏教コミュの日本にあるゴータマの骨 (覚王山日泰寺[名古屋市]) 

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「仏舎利(ぶっしゃり)とは、入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨及び棺、荼毘祭壇の灰塵を指す」  Wkipedia



『ブッダ最後の旅』(岩波文庫)P172-173にはこうあります。


「尊師の遺体が火葬に付せられると、膚も、皮も、肉も、筋肉も、関節滑液も、その燃えがらの灰が認められないで、遺骨のみが残った。譬えば、バターや油が焼けるときには、煤や灰の残るものが認められるないように、それと同じく、尊師の遺体が火葬に付されたときには、膚も、皮も、肉も、筋肉も、関節滑液も、その燃えがらの灰が認められないで、遺骨のみが残った。そうしてそれらの五百組の衣のうち、最も内部のものと最も外部のものとの二つの衣だけが焼けた」


世界が消滅するときも、このように跡形もなく消えるらしいです。上の記述によると包んでいた二つの衣はどこかにあってもおかしくないのですが、今はどこにあるのでしょうか。キリストの聖骸布の伝説みたいです。


日本にも多くの仏舎利がありますが、今日もっとも信頼できるゴータマの骨は、タイ国王(当時はシャム国王)から公式に寄贈された名古屋にある覚王山日泰寺(かくおうざん・にったいじ)の仏舎利です。「覚王」とはブッダの別名で「日泰」とは日本とタイ。そのままですが覚え易いです。覚王山日泰寺は超宗派ですので、誰でも気軽に参拝できます。当時は非常にセンセーショナルな出来事だったらしく、歴史を調べてみると非常に興味深いです。注意が必要なのは、本堂には仏舎利は祀られておらず、境内を出て北東500メートル歩いた仏舎利奉安塔に仏舎利が祀られているということです。僕は歩いていきましたが、少し足が疲れました。拝観日ではなかったので接近できませんでしたが、塔が見えただけでもかなりの感動がありました。もっともその時は、原始仏教がどんなものか知らないときでしたが。また行きたいと思います。覚王山日泰寺の仏舎利の歴史については以下のサイトを参照してください。「夜話」に書いてあります。他にも面白い話が多くあります。

・サイト「紫雲寺(般若山 寂光院)」
 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/
・サイト「在京タイ王国大使館」>日タイ関係>覚王山日泰寺の歴史
 http://www.thaiembassy.jp/TJrelation-j/j-nittaiji.htm

「覚王山日泰寺の歴史
愛知県名古屋市
2004年11月
1898年、英国人考古学者が、ネパールに程近いインド北部の古墳での発掘作業中に、人骨が納められた西暦紀元前3世紀頃の古代文字が刻み込まれた壷を発見しました。
その壷を採取、文字を解読したところ、中に納められた人骨は仏舎利であることが判明、つまりは釈尊なる人物はこの地上に実在しなかったとする見方を覆し、その実在が立証されたわけであり、この発見はアジアにおける一大発見となりました。
当時インドを治めていた英国政府は、こうした真の仏舎利は仏教徒にとって最も価値あるものと考えました。タイ王国(当時のシャム)が唯一の独立国家としての仏教国であったため、タイ国王が当時世界で唯一仏教を守る人物であると理解したインド政府は、この仏舎利をチュラーロンコーン国王陛下に寄贈、国王陛下はバンコクのワットサケート寺のプーカオ・トーン(黄金の丘)の仏塔に安置されました。
その後日本を始め仏教を信仰する各国の僧侶、外交団等からこの仏舎利を分与して欲しい旨依頼があり、国王陛下は仏舎利をこれらの国々に分与、日本に関しては宗派を特定しない日本のすべての仏教徒に対する贈り物としてお分けになられたのです。
日本仏教各宗管長は御真骨を自国に持ち帰るためにバンコクに使節団を派遣、1900年6月15日にチュラーロンコーン国王陛下より御真骨を拝受、御真骨奉安のための寺院を超宗派で建立することをお約束申し上げたところ、御本尊にと釈尊金銅仏及び建立費の一部を下賜されました。この釈尊金銅仏は大変美しくまた伝統あるもので、当時のタイ国にとって重要な芸術品のひとつでした。
使節団がタイ国から帰国後、仏教各宗派の代表と協議した結果、名古屋市民の要望が強かったことから名古屋に新寺院及び奉安塔を建立することになりました。そして、タイと日本の友好を象徴する日泰寺が1904年11月15日に名古屋(現在の愛知県名古屋市千種区法王町1-1)に誕生しました。
釈尊御真骨を安置する奉安塔は、東京大学伊東忠太教授の設計により1918年に完成しました。この奉安塔は伊東教授の代表作となり、後々日本国内で壮麗な仏教建築と賛辞を受けることになります。
タイ国から拝受した釈尊金銅仏を安置する新しい本堂は1984年に完成しました。プミポン・アドゥンヤデート国王陛下にこの新本堂の完成を御報告申し上げたところ、金銅釈迦如来像と直筆の勅額一面を下賜されました。勅額にはタイ文字で「釈迦牟尼仏」と記され、両脇にはそれぞれプミポン国王陛下とチュラーロンコーン大王の御紋章が刻まれており、現在は本堂外陣正面に掲げられています。
その名が「日本とタイの寺院」という意味を持つ日泰寺は、二国間の良好な関係を表す寺院であり、いずれの宗派にも属していない単立寺院であって、その運営に当たっては現在19宗派の管長が輪番制により3年交代で住職を務めるという、日本でも特異な仏教寺院です。
日泰寺は、チュラーロンコーン大王が日本人仏教徒のためにと釈尊の御真骨と釈尊金銅仏を下賜されたことから建立された寺院で、タイ国にとても近い存在です。特にタイ国王室との関係は特別なものがあり、王族の方々が幾度となく訪れていらっしゃいます。1931年、訪日中でいらっしゃったプラチャティポック国王陛下(ラマ7世)とラムパイパンニー王妃陛下が日泰寺を御参詣され、1963年にはプミポン・アドゥンヤデート国王陛下、シリキット王妃陛下も御参詣されました。また、日・タイ修好百周年に当たる1987年、日泰寺は本堂前にチュラーロンコーン大王像を建立、同年9月27日の祝賀法要にはワチラロンコーン皇太子殿下に御臨席を賜り、銅像の除幕式を執り行いました。
毎年10月23日のチュラーロンコーン大王記念日には、タイ政府関係者及び在日タイ人が、大王の慈悲深い御心を今一度思い起こすために献花に伺っております。
日泰寺は、2000年6月15日にチュラーロンコーン大王からの釈尊御真骨及び釈尊金銅仏拝受百周年を祝い、また2004年11月15日には建立百年記念法要を執り行いました」

画像を拝借しました。


遺骨供養に関して『ブッダ最後の旅』P133にも書いてあります。

「四つ辻に、修行完成者のストゥーパをつくるべきである。誰であろうと、そこに花輪または香料または顔料をささげて礼拝し、また心を浄らかにして信ずる人々には長いあいだ利益と幸せとが起るであろう」

拝めば大功徳があるようです。他に、如来が生まれた場所、悟った場所、初転法輪の場所、入滅の場所で人は感激するという四つの場所の巡礼。それと如来と独覚と声聞と転輪王のストゥーパの四つです。話の流れでは主に遺骨供養に関する言及だと思います。この八つが功徳を生み出す場所と遺物です。

多分、仏舎利だけでなく、仏像を拝んでもこの効果は期待できると思いますが、できれば本物を拝むことができれば最高だと思います。拝むよりも修行の方がずっと功徳がありますが、ムスリムにとってのメッカのカーバ神殿のように一生に一度は覚王山日泰寺の仏舎利を拝むのもよいかと思います。拝観できる日が年に数度あるらしいのでご確認ください。僕は平日に行ったので、閑古鳥が鳴いていました。僕以外に初老の紳士が一人参拝していました。タイから送られた本堂の金ピカの仏像も興味をそそるかと思います。門では、でかいマハーカッサパとアーナンダが出迎えてくれます。仏舎利はその境内から北東500m歩かなければなりませんが。

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