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2005年11月27日21:23

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アドリア海の白い山肌

旅行先として、今も人に薦める街、クロアチアのドブロブニク。
95年11月に始めて訪れたのだが、その時の旅行が今に至る旅行への転機になった様に思う。

ネパールは置いといて、その前2回と同じくスロヴァキアに住む友人を訪ねていったものだった。
その2回も現地で宿を決めたり、日程を変えたりしていたが、この
旅行ではそもそも、ドブロブニクを目標にしていたが、行けるかどうか出発前は分からなかった。

クロアチアが一方の当事者であったボスニア・ヘルツェゴビナ和平合意(ディトン合意)が成立したのが、旅行出発前日の11月22日。サラエボ等の情勢は報道されていたが、クロアチアの状況は判らなかった。
最新情報もなく、調べたガイドブック等も分離独立前のもの。スロヴェニア大使館から旅行情報を送ってもらったりした。

ウィーンからザグレブまで行った。その街の旅行会社でアパートの一室の民宿(SOBE)を紹介してもらい1泊。始めて一般家庭に泊まった。
ザグレブでアドリア海の船会社を見つけて船のスケジュールを調べたら、ドブロブニクへの便に乗れる事が判明した。
翌早朝、スロヴェニアのリュブリアナへの列車に乗り、そこの旅行案内所でポストイナ鍾乳洞に寄って船が出るリエカに行けることが判明したので、バスに乗った。
リエカでは、ホテルから浩子さんのラジオ番組にFAXを送り読んでもらったのも想い出である。

翌夕、リエカからフェリーに乗ってドブロブニクに向った。晴れていたらさぞ美しいだろうという雨中の船旅。
船で1泊してドブロブニクに着くとひとりのおばあさんがいて、そのひとの家に泊まることになった。これが始めて客引きに引っ掛った体験。夕方で何処にいるかも判らない状況では客引きはありがたい。
その家に着くと、玄関を入ったところの居間を片付け始めて泊まる部屋になった。
ちなみに、その家には98年5月にも泊まった。サラエボからのバスを降りるといきなりそのおばあさんから「ジャパニーズ・ボーイ」と声を掛けられて、立ち寄りだけが、泊まるはめになってしまったのだ。

その日の暗くなってからドブロブニク旧市街に一応行ったが、やはり印象深いのは翌日、快晴の元であった。
この旅行ではその日まで曇りに雨の肌寒い日々が続いていたのが、青空の元、青い海、白い山肌、生成り色の石造りの壁と赤い屋根の街を観たのは強烈な想い出となった。

ドブロブニクからはバスに乗ってアドリア海沿岸を走りスプリットへ。そこからドブロブニクで買ったチケットで夜の飛行機に乗ってザグレブ。その夜の内に夜行列車でベネチアへ。
スプリットで始めて白地にUNと書かれた国連の車を見て、ザグレブではずらりと並んだ国連機を見た。

この旅行では、情報の少ない土地への旅行でも何とかなると思えた。
また、民家宿泊、客引きを体験し、それらをうまく使えば旅行がし易く、面白くなる事を知った。
さらに、交通機関もトロリーバス、路面電車、列車、バス、船、飛行機と各種利用できたのも楽しかった。
もうひとつ、その後の旅行で何度も出合う国連の存在を身近に感じたのも最初である。
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