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2006年10月25日04:58

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ッちぇ、途中覚醒しちまったい

昨日、軽い仕事だけだったのに、頚椎が疼く。
その痛みで途中覚醒のパターン。
自分の頚椎の6番7番は、ひしゃげてしまっていて、脊髄に直接干渉している。
左手の親指と人差し指の感覚を失ってから、もう6年になる。
今は、両足先の感覚が日に日に無くなっているのを感じる。

頚椎を傷めた原因は、ロード選手としての競技生活だった。
そもそも、私が競技レベルでの選手生活に耐えれるわけなど、
なかったのである。

ソウルオリンピック選考の冠のついたロードレースでの事。
直前の私は、とんでもなく調子が上がっていた。
クリティカルレシオという状態だった。
日本語で言うと臨界点となる。

それまで、段階的に幾たびの怪我を克服しながら、失った能力は、
走りを変える事で、対応していた。
失った能力で特に堪えたのが内転筋断裂による、スプリント力の
消失である。

200ハロン(トラックの200メートル通過タイム)11秒台。
1000ハロン59秒台(これは、1キロを時速60キロ以上で走った
ことになる)。

全て失った。
そして、それまでの先頭集団で動いていて、アタックにことごとく
乗っていき、少人数でのゴールスプリントに勝機を狙っていた
走りは、出来なくなってしまった。

どれだけもがいても、どんな最新のディスクホイールを使っても
失ったものは、帰ってこなかった。
ふてくされて、県大会のトラックレースのスプリントにエントリーして着を稼いだが、何の感動もなかった。

もう一度、実業団ロードの先頭集団で走れるようになりたい。
悶々とした時間のなか、自身の中で2度目となる
ドラスティックなBREAKが起こった。

アタックについて行くのではなく、アタックをかける走り。

できるのか?しかし、道はほかにない、やるしかないんだ。

苦手だったロングライドをトレーニングメニューの中心にした。
バナナ6本にダブルボトルで途中適当に、水だけ確保して6時間から7時間を一人、ノンストップで走りつづけた。

失ったものが大きいほど、得るものも大きいと知ったのは、
このトレーニングを始めて、一年ほど経ったときだった。
その日は、突然やってきた。

160キロをバナナ6本、ダブルボトルのノンストップでアップダウンのある160キロを4時間をほんの僅か数分超えるタイムで、走りきれるようになっていた。
集団走行ではない、独走でだ。

スプリントは、失ったがこのとき私は、国内のロードレースの
距離なら、先頭集団で走れるスピードとスタミナを
獲得していた事を知った。

翌週は、ソウルオリンピック選考の冠のついたロードレースだ。
私など、ノーマークで誰も意識していなかった。
ちょうど、チームを移籍してチーム名やウエアが変わっていた事も
あったのかもしれない。

この日のレースのために、取って置きのタイヤを装着していた。
クレメンクリテリュウム・セタ・エキストラNo1。
ラテックスで出来たチューブをセタ(絹)のコードで巻いて
作られた、世界最高の決戦用タイヤだった。

身体の状態は、クリティカルレシオ、機材は世界最高。
西日本実業団ジュニア120キロで優勝した時と同じ、感覚を
感じていた、勝機はあると。

コース序盤は、2車線をガードレールで区切ったフルフラット。
そこを高速で数周回して、外周のロードコースに出るといった、
コースプロフィールだった。

序盤のフルフラットの周回は、集団内でアップのつもりで、
流していた。
しかし、平地の自転車の集団の速度は、速い。
50キロ前後を維持しながら、左右をガードレールで区切られた、
2週目の直線に戻ってきた。

そこで、ありえない事が発生した。
一周目には、ガードレールの外に読売テレビの中継のカメラは、
設置されていた。
しかし、2週目の直線に入った時に、見えたのはコース内に
設置されたテレビカメラだった。

私の位置は、コース左側ガードレールに一人選手を挟んだ位置に
いた。
コース内のカメラは、右側に設置されていた。
そこに、大学生の選手が突っ込んだのだ。
そして、カメラはコース内に倒れこんできた。
私の目の前に・・・
左によけようと思うが、自分がよけると、左ガードレール横の
選手がガードレールに激突して、最悪クビをガードレールに
乗せる形の落車になる可能性があった。

選択肢はなかった。
フルブレーキングするもその時、中継の読売テレビのカメラは
私の前方に落下してきた。

時速50キロから、40キロぐらいには、減速できていたのかも
しれないが、激突の衝撃は私を半年間寝たきりにしたのである。

読売テレビは、マラソン中継のベテランスタッフを揃えて、
ソウルオリンピック選考の冠のつく、レースの中継に当たった。
精鋭である。
しかし、サイクルロードレースとマラソンは、速度域が
違うのである。

純レーシングスポーツである、サイクルロードレースと陸上の
マラソン程度に考えていた、読売テレビ編成局と中継クルーの
東通のカメラマン。
一週目、ガードレールの外に設置してあった、カメラを独断で、
コース内に設置した。
理由は、沿道の観客がコース内を覗き込むために、選手が撮れない
と言うのが、理由だった。

自転車競技が、今よりもっと、理解されていない時代に起こった、
事故である。

今であれば、クレーンカメラやモトカメラや空撮が常識だ。
時速50キロの集団で飛んでくるコース内にカメラを設置するなど
どう考えたら出来るのだろうか。

やはり、マラソン中継ベテランの精鋭スタッフに問題が
あったのだろう。

地べたを二足歩行で走るマラソンと、人類が発明した究極の
運動効率を持ったロードレーサーというレーシングマシンの
違いなぞ、説明しなければ解らない者なのだろうか?

その後、私を待っていたのは狭いアパートに読売テレビの
重役たちと、保険担当の交渉人の訪問であった。

事故直後は、動けていた身体も翌日とその翌日と時間が経つにつれ
腰痛、膝の痛み、折れた手首の痛みと、酷くなる一方だった。

6台の車で押しかけてくるのはいいのだが、部屋は2Kの
ボロアパート。
部屋の中には、ロードバイク、トラックバイク、TTバイク、
スペアホイール。

コップなど、2しかないのでお茶の出しようもなかった。

あまりの質素な暮らし振りに「うぅうん、よく整理されているね」
などといっていた。

この時、相手から金を取ろうと思えば簡単な状況だった。

オリンピック選考のレースで、中継のテレビカメラを危険な個所に
設置した挙句、そのカメラがコース内に落下。
選手一人が重症、、、
家一軒建てるだけの金を貰ったと、噂されたほどだった。

私の要求は、ただ一つ、競技復帰である。
その翌日、国立大阪病院に入院した。

既に国立大阪病院のアスリート専門のドクター3名のチームが
組まれていた。

砕けた左膝に、内視鏡を入れた。
激突の衝撃で右坐骨神経群を潰していた。

アスリート専門のドクターチームの検査は、3日間に及んだ。
膝は、何とかなる事が解った。
ついでにドクターに言われた言葉。

「君は、とことんスポーツに向いていないな」、「小さな骨盤が
下半身の筋力に負けて、大腿骨が半分抜けてるぞ」、「首が
細長いな、しかも撫で肩。前傾しながら前を向かないといけない
種目の選手としては、この首じゃーあかんわ」、「膝関節も
グラグラや、筋肉落ちたら股関節脱臼に、膝も装具が
要るようになるな」、もうボロクソである。

問題は、坐骨神経である。
筋肉を動かすためには、筋肉に神経から電気信号を送らないと
動かない。動かない筋肉は、やがて萎縮する。

右坐骨神経からの大殿筋を動かす筋電図の信号は、通常の3分の1を
切っていた。
「このままでは、近いうちに階段を上がることも
出来なるなるだろう」と言われた。

3分の1の信号では、いくらリハビリをしても、筋肉は萎縮する
一方だとの事だった。

そして、「君を競技復帰させる事は、障害者になることを意味する」
「医者として、それは出来ない」といわれた。

私は「貴方たちのすることは、私の将来を考える事でなく、
今の私の身体を考える事のはず」と言い放った。

国立大阪病院で、膝の手術を終えた私は、民間のスポーツ科学研究所を訪ねた。

日本では、まだ認められていない、受容固有性神経筋側通法と言う
手技とアイシングを組み合わせた、治癒プログラムに賭けた。
健康保険は利かないどころか、1回の手技を受けるのに万単位の
金が必要だった。

半年以上通った。
法外な金がかかっただろう、当然読売テレビ持ちだ。
わたしは、一切の賠償責任請求をしなかった、びた一文もだ。

研究所での、手技もアイシングも苦痛に耐えるのみだった。
半年間絶えた。

国立大阪病院での定期検査で、あるとき筋電図の波形に変化が
見られた。
3分の1しかなかった、波形が2分の1にまで回復していたのだ。
だが、100%ではない、半分では競技復帰など程遠い。

しかし、バイクに乗れるようにはなった。
研究所で週4日の治癒プログラムを受けながら、早朝と夕方の
六甲山を日に二回、ひたすら走った。

夜は、借金のかたに差し押さえた、ツレのAE86にTRDのノンスリと
ポテンザを履かせて、夜の六甲を攻めに行っていた。
朝夕と、バイクで穴の位置まで道を記憶している六甲山である。
腕がどうとかではなく、この次のコーナーの状態を
記憶しているので、バトルを挑んでくる連中なんぞ、
コーナー3つでバックミラーから消えうせていた。

厳寒の六甲もひたすら登った。
気温が下がると大気濃度が濃くなる。
空気中の酸素が濃くなるという事だ。
いくらもがいても、全く息が上がることはなかった。
調子に乗って、もがきつづけていると肺の換気量の限界を
超えてしまって、肺の毛細血管が破裂した。
あの時吐いた血の色より綺麗な赤は、あれ以来見たことがない。

厳寒の六甲山で、喉が乾いているのにボトルが凍ってしまって
水が飲めなかった事もあった。

やがて、春がやってきた。
一年ぶりのシーズンである。
オープン戦のチャレンジロードエリートを完走して、確実に
戻ってきている自分を感じた。

そして、内視鏡を入れた左膝の不安を解消すべく、
Timeビンディングシステムを買った。
ビンディングとシューズで6万と言う値段は、当時としては
法外に高いものだったが、私には選択肢がなかった。

その年発足した、HYOGO Time Racing Clubからオファーがきた。
断る理由はない、Timeビンディングがパーツサポートをしてくれるのだ。

一発目の西日本実業団鈴鹿120キロは、完全に感が働かずアタックを掛ける間でもなく、アタックにも乗りそこね、後方メイン集団でのフィニッシュとなった。

その3ヵ月後の近畿ロード鈴鹿120キロ。
シマノやサンツアーやスギノは、ツールド台湾に遠征中。
鬼の居ぬ間になんとやらだ。

結果、個人15位、チーム団体2位に入った。
実質優勝だったのだが、色々とネ!でも、西日本でいちばんの
クラブチームになれた事は、大人の事情を無視して、心から
嬉しかった。

この頃既に、私の頚椎は悲鳴を挙げていたんだろうと思う。
でも、がんばっている私に、その悲鳴を
がまんしていてくれたんだと思う。

だから今、思う存分暴れてるわけだ。

頚椎の傷みがおさまる事があるのなら、また走りたいな。

そのまえに、たまには熟睡させろ。








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