アリシア人とエッドア人、両者はE・E・スミス「レンズマンシリーズ」に登場する二大種族。前者は善、後者は悪を象徴するが、両者とも絶大な思考力を持つ。そのSF設定から私はこんな仮説を導き出した。
「アリシア・エッドア仮説」:十分に思慮深い存在について、その意図の善悪に依らず行動は区別できない
次に、アリシア・エッドア仮説と進化的に安定な戦略(ESS)とを合わせて考えると、両者は等価(どんなケースても判別不能)となる。要するに、アリシア人はエッドア人と同じ(なれの果て)という事。裏切りが合理的選択の囚人のジレンマの「最終回」であっても、自分の子孫への評価を考えたら裏切り戦略は無い。そして「裏切り」を指向することすら淘汰されてしまう。
では、さらに踏み込む。物語でアリシア人はエッドア人をなぜ敵視し、排除しようとするか?私の想像:外見が呼び起こす種族的恐怖の記憶。
ディズニー映画に「アーロと少年」という作品がある。チクシュルーブ隕石がそれて、白亜紀末の絶滅がないマルチバース。知能を持ったアロサウルス(アーロ)と霊長類の少年が友達になる、というほのぼの話。
でも、我々哺乳類は恐竜の影に怯えていた2億年近い進化の歴史を引きずっている、ので
白旗を掲げ、砲身を目一杯の俯角で戦闘意思のない敵軍戦車が結構な速さで接近しているのを見ても、思慮深いロンメル将軍(ここはモントゴメリーでもパットンでも可)は麾下の対戦車砲に砲撃命令を出さない。しかし・・・・
接近してくるアロサウルスのような異形の生物には、容赦なく砲撃命令を出す。たとえそのアロサウルスが、知能を持ち悪意なく友好的な意図で近づいてきたとしても。
アリシア人が遙か昔、中生代の哺乳類のようなポジションにいたとき、優占種の外見が、エッドア人に似ていたとしたら・・・・思慮深さは、本能で一瞬で蒸発するかもしれない。この考察は妥当?
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