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2023年09月02日04:06

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共産党と毛沢東を暴走させた大躍進政策と文化大革命の恐怖(中編):屈辱の日々、彭徳懐、劉少奇、そして周恩来

 そうした中、大躍進政策の中間総括である廬山会議(党政治局拡大会議と8中全会=1959年7月〜8月=写真)が開かれた。この会議の前に、毛沢東は大躍進政策の行き詰まりの責任をとって、国家主席を辞任(しかし党主席の地位は手放さなかった)、後任の国家主席に調整政策を担うことになる劉少奇が就いていた。

◎彭徳懐の手紙に猛反発した毛沢東
 廬山会議の前に、党中央の間で、大躍進政策の失敗を招いた毛沢東の責任を問う雰囲気が醸し出されていた。そこに、彭徳懐は大躍進政策を批判する手紙を毛沢東に送った。毛沢東はこの手紙を、自身の批判、党主席辞任の勧めと曲解し、彭への猛烈な反批判、反撃に転じた。
 初めは党内の大躍進政策批判を受け入れる雰囲気だった党中央は、毛の反撃が腰砕けになり、逆に彭は孤立し、「彭徳懐反党グループ」の頭目として、国防相、党軍事委副主席の地位から引きずり下ろされた(写真=朝鮮戦争帰還後の彭徳懐と毛沢東。この時、両者は篤い信頼感で結ばれていた)。
 この後任が、後に文化大革命(文革)を毛沢東の手下として推し進め、最後は毛へのクーデターを企てて失敗後、ソ連亡命を企てるなか、乗っていた飛行機がモンゴル上空で墜落して死んだ林彪(写真=紅衛兵の大集会で毛沢東、周恩来=左=と手を振る林彪)である。

◎失脚後も許されず
 揺るぎない超自信家、批判を許さない独善家であった毛沢東は、彭徳懐を失脚させても、決して彼を許さなかった。
 1965年11月に号砲が鳴らされた文革は、彭の失脚を暗に批判したとみなされた京劇戯曲作品『海瑞罷官』に対する糾弾で始まった。文革で、彭は徹底的に個人攻撃され、また肉体的な暴行も加えられた。
 例えば文革が本格化した1966年に、彭は孫ほどの若者の紅衛兵により成都から北京に手荒く連行された。翌年7月9日の彭への「批判闘争会」では(写真=批闘会に紅衛兵に引きずり出された彭徳懐)、紅衛兵たちに7度も地面に叩きつけられ、肋骨を2本へし折られ、この暴行の後遺症で下半身不随となった。これが、かつての朝鮮戦争の英雄、国防相への、仕打ちであった。

◎人間としての尊厳をも汚されて
 その後は、病室に監禁され、外を見られないように窓をすべて新聞紙で覆っての約8年の幽閉生活を送る。
 1974年9月には末期直腸癌と診断され、鎮痛剤の投与も拒否され、激痛と下血・血便にまみれた状態のままのベッドで何日も放置されるなど、人間としての最後の尊厳まで踏みにじられる甚だしい虐待を受け、同年11月29日に死去した。
 彭徳懐の受けたような人道のかけらすらない虐待は、毛沢東のライバルとされた国家主席の劉少奇の晩年も同じだった。
(この項、続く)

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昨年の今日の日記:「旧ソ連の指導者ゴルバチョフ氏死去、ソ連スターリン主義を葬り去った功績は大きいが、元共産党エリートとしての限界も多数」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202209020000/

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