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2023年07月15日07:17

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人間様の間尺

 今日は78年前(第二次世界大戦中)にイタリアが我が国に宣戦布告した日です。
 こう書くと、非常に違和感を覚えた人は多いかもしれません。第二次世界大戦では、イタリアはドイツ、日本と共に枢軸国として連合国と戦ったはずだと思われたことでしょう。
 確かに大戦の当初はそうでした。でも、イタリアは早々に降伏し(1943年)、(内戦状態には陥りましたが)形式的には連合国側に組み入れられていたのです。
 元々、全体主義(ファシズム)の語源となったファシスト党を率いたムッソリーニが曲がりなりにもイタリア国民から支持されたのは、彼の下では取り合えず食っていけたからでした。人間様は食わずに生きていくことはできません。ところが、ムッソリーニが首相として活躍するまでのイタリアの食糧事情は(現在のどこかの島国に似て)それはそれは貧弱なものでした。イタリア人の主食とも言えるパスタやパンの原料となる小麦の生産量が少なく、不足分は輸入に頼らざるをえない状態でした(例えば、1925 年の統計によると、年間の総貿易赤字の半数を小麦輸入が占めるありさまでした)。
 そこにリラ安が重なり、物価が高騰してイタリア経済と人々の家計を圧迫していました。
 加えて、米国が移民制限を導入しました。これは、出稼ぎを含む国外移民をすることで何とか糊口を凌いでいた貧しいイタリア人の多くにとって、望みを絶たれる出来事でした。国外への出口を失った農村部の人々は、職を求めて国内の都市部へ流入せざるを得ませんでしたが、当時のイタリアにはそれを吸収するだけの労働市場を用意する余力がなかったため、都市には失業者が溢れ、どんどん治安が悪化していきました。
 こうした何とも絶望的なまでに深刻な社会不安を抱えていた時代に登場したムッソリーニはよく働き、農業の近代化、荒れ地の開墾事業等を通じて雇用を創出したうえ、少なくとも数字の上では穀物自給率を100%にまで高めることに成功しました(1933年)。この時代のイタリア人は「俺たちもやればできる」という自信をいくらか回復したと思われます。
 余談ですが、作曲家レスピーギの「ローマの松」はこの時代に作曲され、特に古代ローマの栄光を彷彿とさせる勇壮な第4曲“アッピア街道の松”には、当時の雰囲気を感じさせるものがあります(作曲者自身にはムッソリーニに阿(おもね)る気持ちはなかったようですが、レスピーギの曲は概ねファシスト党からは好意的に受け止められていたようです)。
https://www.youtube.com/watch?v=a5YqCaUAwzQ

 イタリアはムッソリーニの指導の下、第二次世界大戦の戦場にも攻め込んでいきました。中でも厳しい寒さに苦しんだ東部戦線の様子は映画「ひまわり」にも描かれています。
https://www.youtube.com/watch?v=MFfhoW7H_do

 いざ戦場に出てみると、これはいささか人間様の間尺に合わないことを多くのイタリア人が感じるようになりました。生きるために食っていこうとしていただけだったのに、命の危険があまりにも大きすぎ、これでは本末転倒であることにようやく気づいたわけです。
 元々、時に暴力的なムッソリーニの手法には批判もあったので、こうなると事態は急速に動きました。ムッソリーニは国王と共謀した反対派勢力の政治的クーデターで首相を解任され、イタリア中部の山岳地帯にあるグラン・サッソのホテルに幽閉されました(1943年7月)。これによってファシスト政権は崩壊し、国王はムッソリーニに代えて、国防軍の長老ピエトロ・バドリオ元帥を首班とする内閣を成立させました。
 バドリオ政権は、少しでも有利な条件で連合国との和平条約を結び、連合国の一員としてドイツと戦おうという心づもりだったのですが、連合国側は弱っちいイタリアなど当初からアテにしていなかったものと見えて、条件闘争を仕掛けてグズグズしているバドリオ政権に業を煮やして無条件降伏を突きつけました。国力の衰えていたイタリアはこれを事実上のまざるを得ず、1943年9月8日に終戦を迎えることになりました。
 でも、そこで早速連合国が進駐するかと思いきや、いち早く現実に動いたのはドイツの方でした。イタリアの隣国オーストリアを当時併合していたドイツにとっては、イタリアの降伏は連合国が国境に迫ることを意味したので、ヒトラーは先手を打ってローマを含むイタリア北・中部へドイツ軍を進駐させたのです。
 下掲のシーンで有名な映画「無防備都市」は、この時代のイタリアを描いたものです。
https://www.youtube.com/watch?v=-5MMIMKhJNs(ナチのガサ入れを受けるローマ市民)

 ドイツ軍の進駐で国王たちは、後で戦おうと目論んでいた当の相手に進駐されたのでパニック状態に陥り、ローマを捨てて連合国の占領地域に逃亡してしまいました。すると、こんな無責任な国王の下で生きるのは人間様の間尺に合わないということで、戦後すぐにイタリア国民は王制をあっさりと廃止しました(1946年)。
 一方、イタリアに進駐したドイツ軍は、ムッソリーニを復権させて傀儡政権を作るべく、ムッソリーニの救出作戦を断行し、これに成功しました(グラン・サッソ襲撃 1943年9月12日)。この救出作戦の様子は、映画「鷲は舞いおりた」で描かれています。
https://www.youtube.com/watch?v=OEgCudotllY

 ムッソリーニは9月23日には、イタリア北部のドイツ軍支配地域に、自らを国家元首とするイタリア社会共和国(RSI)を建国しました。この結果、イタリアは北のRSIと南のバドリオ政権に別れての内戦状態に突入しました。RSIの抵抗は1945年4月まで続いたもののバドリオ政権側優位で内戦は進み、イタリアは連合国側に組み込まれていきました。
 バドリオ政権はこの状況を最大限活用し、1943年10月13日にドイツに、そして冒頭に述べたように1945年7月15日には日本に対しても宣戦布告をしました(しかも、戦後には戦勝国として日本に賠償金も求めています。日本政府は、拒絶しましたが)。
 こうした連合国としての働き?が評価されたのか、国連の旧敵国条項※の対象国にイタリアは含まれないとする解釈が有力です。
 ちゃっかりしていると言えばまぁそうなのですが、イタリアはその一方で実質的には敗戦国と言っていい状態であったにも拘らず、民間人への戦時補償は(金額はわずかなものですが)ちゃんと行っています。その根底には、職業軍人であれ、民間人であれ、戦争で被害を受けた人間様には戦時補償があって当然だという当たり前の健全な考え方があります。
 民間人への戦時補償は、せいぜい被爆者に対してしか行っておらず、しかも被ばくしているにもかかわらず、わざわざ「被爆体験者」というカテゴリーまで設けてまともな戦時補償をしていないどこかの島国とは雲泥の差があります(https://kotobank.jp/word/%E8%A2%AB%E7%88%86%E4%BD%93%E9%A8%93%E8%80%85-893797#:~:text=1945%E5%B9%B4%EF%BC%88%E6%98%AD%E5%92%8C20%EF%BC%89%E3%81%AE,%E5%A4%96%E3%81%AB%E3%81%84%E3%81%9F%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%80%82)。
 (たとえ戦時下であっても)人間様の間尺に合わないことは拒絶する国として、イタリアには見習うべき点が少なくないです。

※ 国際連合憲章中にある条項で、第53条、第77条1項b、第107条に規定がある。要は
旧敵国からの侵略に備える地域的取極に基づいてとられる強制行動は、安全保障理事会の許可を必要とせず、安全保障理事会への報告だけで足りるということである。現在では規定自体の有効性が失われたとみられているが、国連憲章からの規定の削除には至っていない。
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