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2023年05月05日19:03

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日記5

要するに私は、「母」が元来持たねばならなかった「私にとっての心の安全基地」が上手く機能しない、つまり「機能不全」を起こしていたのであり、その安全基地というものを、私は、その時々で飛び込む「環境」に求めていた節があった。「節がある」というか、もうまんま、その通りである。



母は「わが子を癒す」ではなく、「わが子に癒されたかった」のだろう、



「ねえ、私って間違ってないよね、間違ってないよね」と。


そして、かろうじて「癒し」の役割を持っていた姉が、例の事件より母と断絶したので、その「感情のクソのゴミ箱」の役割が、私へと向かっていたのである。




母が「それ」をする時、私の中で、自分への自己肯定感が限界まで下がっていくのであった。ちなみに、今周囲に「自己肯定感が下がっていく」という知人もいるのではあるが、今の私にその感覚はない。俺はモテて当たり前であり、自己肯定感が下がる可能性があるのであれば、その発端のボケがトラブルを起こした(男の一人っ子、もしくは被差別部落民)である可能性が高いので、優先すべきは、そのクソを排除する事、そして、そのために手段はいとわない、というのは道理である。



歴史に「if」はないし、過去を変えることは出来ないのだろう。そして私が、「自分を守るための怒り」を抑え込んだ結果、「怒れば、癇癪を起せば、そしてゴネれば、周囲が言う事を聞く、有利に事が運ぶ」などと考えている、「弟がいある兄、もしくは男の一人っ子」を、ありていに言えば「調子に乗らせていた」のである。






そして、今からでも遅くはない。「私と母」との「私が正常に怒りを発出させるために、築かれるべきであった信頼関係、並びに心の安全基地」を作り出すことが出来ずに、飛び込んだ先の環境で、その手のクソを増長させたのは、俺のミスであり落ち度であった。


「それを反省し、自分の問題であったと真摯に向き合う事、周囲に謝罪の念を示す」ことはするべきであろうが、「それとこれとは別」って事で、俺にケンカを売るか、もしくは洒落にならない真似をしてきたクソには、一族を根絶やしにするぐらの恐怖と「ケジメ」を与えなければ、割に合わないのであった。



なぜ「男の一人っ子」に対して、このように思うかと言えば、ひとえに彼らが、自分のしたことに対してケジメ、つまり責任を取らずに、「ビビって逃げる」からに他ならないのであった。通常、何やかんやで「風の便り」を聞くのではあるが、この手合いに関しては、「最初から存在していなかった」っていうぐらい、誰からも、何の噂も聞かないのであった。





そして、私が例の事件の際、このボケは俺が「怒りよりも恐怖」が先に来るとでも思っていたのであろう。だからこそ、「俺は怒った、相手は悪いから」という事で、その場を有利に運べるからであった。


だが、コイツは阿保なのか、こうも反対に考えられないであろか。つまり、ある状況下で「自分が怒ることで、その場で上手くいく」と思ったというのであれば、「その状況」が終わった時、自分自身が、例えば俺によって、それこそ殺害されるぐらいの怒りに飲み込まれた俺が、報復しに来たとしても、それを受けて立つ、返り討ちにする、って気概があったのか。



と言われたら、もちろんそんなもん、あるはずがない。あるはずがないからこそ、「ビビッて逃げる」のである。俺は悪くない、周囲が悪い。そうやってゴネる、癇癪を起す。周囲が(まっとうに他者と共同する人間が集まる環境であるならば)怒り出す。手前が不利になり、攻撃されることは必至である。だからこそ、「ビビッて逃げる」のである。もし、俺が、自分を守るための怒りを発出させることを厭わない、というかすぐにフルパワーに出来るような人間であれば、このボケを、俺が「ケジメ」をつけることも出来たであろう。そういう俺の心の気持ちをうまく受け止め、癒す事が出来る人間が、本来ならば「母」なのかもしれないが、それが「不全を起こしていた」ので、組織に居なきゃ死ぬ病とか、「辞める恐怖症」になど、今では考えれれないような事態になっていたのである。




「恐怖症、死ぬ病」って話じゃねえんだよ。その俺が辛い思いする「発端」になったクソを、殺し、周囲の人間を嬲り殺し、一族を皆殺し、根絶やしにしてやる、ぐらいの怒りを、もっと早い段階で出さなくてはならなかったのである。言うまでもなく、俺も死刑か無期懲役が、只ではすまないだろうが、少なくとも「恨みつらみが晴れるまでしシバく」ぐらいのレベルで、時勢することができねえもんだろうか、とさえ思った。少なくとも、「女性を守る」とか「女の子といちゃつくほうが楽しい」って気持ちが、報復や復讐よりも上回って、俺が快適に楽しく暮らせていけないだろうか、という事を、俺はよく考えていたのである。


「暇な時間があれば、自分を高めるために読書や勉強する」というのもいいだろう、そしうて「忙しすぎる」っていうなら、いかに不必要な雑務や厄介ごとを「スクラップ(廃棄)して、充実した時間を、要は私自身が豊かになるように考えられる空き時間」向かって、邁進するべきであろう。仕事というのも、結局はどこで「手を抜く」かという事が大切なのである。



ただ、ここで一つだけ明確にしておかなくてはんらない事があった。その私にとっての「暇な時間、忙しい時間」というのが、一体どのような「状況」でそうなっているのかを、よく、そしうて常に念頭に置き続ける必要があったのである。




最高のメンバー、ベストではなくても、その状況では少なくともベターである、といった人間を「選び」、そしてその中で、充実した時間を過ごす中で「暇な時、忙しい時間」というものとの付き合い空を考えていく必要があった。というか、「自分の希望、そのために、最高の状態を選ぶ」など、当たり前の事であり、大前提であった。




換言すれば、「メンバーや環境」を「選ばざるを得ない」ということであれば、暇だろうと忙しかろうと、そいつのスペックなぞ、どうだっていい。不穏分子、そして「がん細胞」というかそのゴミを除去するというのは、俺にとってもはや、呼吸するぐらい当たり前の事なのであった。
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