mixiユーザー(id:5160461)

2022年12月20日01:03

57 view

ヒンドゥークシュ南北歴史考古学樷攷 I 桑山正進 臨川書店 2022年08月12日

https://mixi.jp/view_item.pl?reviewer_id=5160461&id=5425387

https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000120674785&owner_id=5160461

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1983951310&owner_id=5160461
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1983956926&owner_id=5160461

p.359
双方ともDar-e Mastit、つまりマスティトの門口を意味するのであろう。…
 休密は後世倶密、胡密(慧超『往五天竺国伝』)、胡蔑(慧琳『一切経音義』)ともよばれ、ワーハーンを指すのであるが52)、『唐書』地理志「烏飛州都督府。以護密多国摸逵城置。領鉢和州。以娑勒色河城置。」の護密多と混同したのは白鳥である。…それは『大唐西域記』の拘謎多、クメダKumedhaであり、バダフシャーンの北の、ダルワーズDarwaz地方に当てられている。上掲の地理志は、唐がそこの摸逵という町に烏飛州と呼ぶ都督府を顕慶年間に置き53)、鉢和州という一州をも統べることにした、ということを述べている。娑勒色河という小町がある地方が鉢和州である。娑勒色河といった地名はワーハーンには見つけがたく、ほかの州名がしばしばそうであるように、鉢和州というのは北魏由来の雅名と考えるほかなく、ワーハーンを指してはいない。…
…ハンドゥードがもとは貴霜翖侯領だったと北魏代にいわれたのを重視すれば、貴霜翖侯はハンドゥード辺から西を領し、イシュカーシム(あるいはIskimisht, Sikimisht)辺までであったろう。休密翖侯はよってハンドゥード辺より東であったことが容易に判る。『魏書』西域伝の伽倍国は和墨城が主都であるから、休密城即和墨城となるが、実際のまちは不明である。
 現在のワーハーンの地理をみると、東方からワーハーン地方に入るには、カシュガルから行くのではなく、ヤルカンドから西行して現タシュクルガンTashkurghanに登り、同名の河沿いに南下してハークァーネ=ウジャバイKhaqan-e Ujabaiを西折し、一路ワフジールWakhjir峠へと登る。この辺はターグドゥムバーシュ=パーミールTaghdumbash Pamirと呼ばれ、8つあるパーミール地形の1つであり、水は東流している。…よって水は西流してワーハーン河Ab-e Wakhan(あるいはパーミール河Ab-e Pamir)となり、ブザイ=グムバドBuzai Gumbad(あるいはBuzi Gumbadと表記)に至る。
p.360
そこからランガルLangar、サルハデ=ワーハーンSarhad-e Wakhan(別名サリグ=チョーパンSarigh Chopan)を経てカライェ=パンジャQal'a-ye Panjahまで進むと、そこはパンジュ河にワーハーン河が既に合流した後である57)。パンジュ河は更に西流し、ハンドゥードKhandudの町(鉗敦、和墨、昏駄多)に到る。パンジュ河はやがて北に屈曲するが、その西南にイシュカーシムの町を見たのち、シュグナーンShughnan、ロウシャンRowshan地方の西外を北流して、ラーグRaghを含むDarwaz地方を囲繞するように流れるのである。
…貴霜翖侯の町を『漢書』に護澡(ワフシュWaχš)とするが、ワフシュがハンドゥードでなければ、イシュカーシムを措いてない58)。…
 東部ワーハーンである休密翖侯領から南へ、キリクKirik峠かミンタカMintaka峠をへれば、ギルギトGrlgit地方へ達するが、一方ボロギルBaroghil峠を辛苦して越えるならば、ヤルフンYarkhun溪谷へ下れる。そこが双靡翖侯領である。『洛陽伽藍記』卷5の宋雲たちの旅行記である『惠生行伝』の賖弥、また『大唐西域記』や『唐書』の商弥*Shambiと音通し、一方『唐書』の倶位や、慧超『往五天竺国伝』、『十力経』序「悟空行記」の拘緯でもある。…マストゥージとチトラールは、ひとつの川に沿っていて、北東に位置するのがマストゥージ、南西にあるのがチトラールである。両者間をひろく賖弥とみるのが自然であろう。…チトラールからドローシュDroshを通り、冬季には不通のラワレイLawarai峠を越えてディールDirを経れば、下スワートSwatへ出ることができ、ペシャーワルPeshawar平野に直通する。一方、チトラールからクナールKunar河をそのまま下れば、アストールAstor、チガサラーイChiga Saraiを通ってニンガルハールNingarhar、古代のナガラハーラに出る。
p.361
 白鳥は肸頓翖侯の場をバダフシャーンとする。…本論では休密翖侯や貴霜翖侯、そして双靡翖侯が占める実際の地理上の広さ(あるいは長さ)から推して交通路上のバダフシャーンを指すものとみ、いわば狭義に解釈し、ダライェ=イームDara-ye Im辺からボハラクBoharak(Barakとも表記される)辺までとその南北若干を覆うものとみておく60)。
…『魏書』の比定を利用して『漢書』の五翖侯の地理上の位置をはっきりさせた白鳥の、高附に関する証明手続は穏当であって、『大唐西域記』卷12では淫薄健と音写する、現ヤムガーンYamgan地方が高附翖侯であることはもっともな結論である。それはコークチャKokcha河にそってジョルムJormからクラーノ=ムンジャーンKurano Munjanを中心とする地方までの、山中の開けたところである。その南でコークチャ河は左右両河に分かれ、右流タガーベ=アンジュマンTagab-e Anjuman(在る地圖ではタガーベ=ドーストTagab-e Dost)に沿って遡上し、西折してコータレ=アンジュマン(Kotal-e Anjumanへと登り、峠を西へ下った谷がパンジュシールPanjshir河である。分かれにもどって、左流はタガーベ=ムンジャーンTagab-e Munjanとよばれ、分流点に近く南岸にクラーノ=ムンジャーンの町が位置する。この河はヌーリスターンNuristanに発し、ヌーリスターンはナガラハーラの北に当る。
p.363
玄奘は帰路に、アム南岸にある現カライェ=ザールQal'a-ye Zalである活から東行して、瞢健(ハーナーバードまたはターラカーンTalaqan)に至り61)、訖栗瑟摩(キシュムKishm)、エフタルの残滓がいたらしい呬摩怛羅(ダライェ=イームDara-ye Im)、鉢鐸創那(バダフシャーン)、淫薄健(ヤムガーン)、屈浪拏(クラーン=ムンジャーン)、達摩悉鉄帝(ワーハーン)と進んでいる。…
…ここでさきほど触れたフルムの東方をトハーリスターンとみる『世界の諸彊域』に依るならば、トハーリスターンの首城は唐代の活、つまりワル*warに相違なく、トハーリスターンが漢代の大夏(トハーラ)であるなら、『漢書』大月氏国伝の大夏の覧氏はワルでなければならないであろう。
 五翖侯が大月氏翖侯の全部でないことは、ペリオが、"La Ta-Hia etait gouverne par un certain nombre de hi-heou (yaβγu), dont les Chinois ont connu cinq..."と陳べたとおりである62)。…『史記』大宛伝に「町町に小長を置いている」といっている。大夏の町々は藍氏城のほかはみなごく小さな町であったことを示唆する。…大月氏が領有した大夏全体に五翖侯だけが翖侯として散在していたのではない64)。
p.364
 バグラーンBaghlan、クンドゥズKunduz、タハールTakharなど、スルファーブ流域からバダフシャーンまでの間に、いまもなお大小多数の町邑がある。直接古代の状況と現在が同じたといえなくても、引き較べる価値はある。唐代の資料にはトハーラには20余所を超える城邑があるというからで、ここには漢代でもかなりの数の城邑が存在したのであろう。現在のパシュトゥーン遊牧民を参考にすると、かれらは大約5代を遡るむかし冬営地をスルハーブSurkhabないしクンドゥズ河中下流に定め、夏営地を総じてバダフシャーンのシェワShewa湖西辺にもって現代に至っている。その意味から五翖侯の所在を彼らの夏営地とみ、スルハーブないしクンドゥズ河下流にその冬営地があったとみても、城邑の数は拾であって、それでは律しきれない数の城邑がこの地方にはあった。
…『唐書』卷43下は、遏換城を阿緩城と記し、25州に増やしているが、同じ『唐書』でも巻221下、西域伝では24州とあり、『唐会要』卷99も、永徽3年(652)に置州県使である王名遠をそこに派遣して月氏都督府を発令したとき、そこに24州あったとあり、同じ卷99でも竜朔元年の記事には、「[吐火羅葉護である]烏湿波に使持節月氏等25州諸軍事月氏都督を授けたとある。
p.365
 張騫は大月氏へ行くために匈奴の地を脱出してまず大宛に到着したというから、カシュガルあたりへ出て、フェルガーナ山脈南麓を西進してアンディジャーンAndijanを通過し、ホージェンドへ達したのであろう。
p.366
どこでくわしく論じたかは判らないが、藍監はKhulmと音韻上繋がるようにはみえない。…私は理論上では、藍市、監氏はムスリム資料上のワル(ワルワーリズ)と考えること、先述のとおりである。
p.369
1世紀中葉ごろこの交易に深く関与していたギリシア人が交易の手引き書として著わしたといわれる『エリュトラー海の周航記』Periplus Maris Erythraeiに、オゼーネーOzeneの名でウッジャインUjjainを、またマドラーModuraの名でマトゥラーMathuraを、またさらにその奥手に居るバクトリア人(蔀2016、199頁によれば都市バクトラ)を記録していることは奇特といわねばならない78)。
p.372
大月氏も同じはずで、アム河北岸に王の幕営があるから、翖侯がいたのは臣属させた大夏である。…
 『後漢書』が五翖侯の中で高附を都密に換えたのも基づくところが明らかでない。しかし予想できるのは、班超班勇のころになって都密が発展して有力地になっていたこと、班超班勇当時に高附と音写する場所は、『漢書』の大月氏五翖侯の地とは異なった場所であったこと、このふたつの情報が『後漢書』編集時点において多分存在した。それで、高附を止めて、都密とした。…
…貴霜翖侯の丘就却が他の四翖侯たちを倒して翖侯から王となり、貴霜国を旗揚げしたという、漢文資料上の丘就却(*Kiu-dzuw-kiak)は、貨幣碑銘にあらわれるクジュラ=カドフィセスと類似するので、同一人物と考えられている86)。
p.374
その烏孫は以来その住地にずっと居ることになり、『漢書』はそれが冬営のイリ河上流から夏営の熱海西南山中ナリン上流域までであったことを随所に示唆している。…
…イリ上流域からナリン河上流に居た大月氏は、西へ大宛(フェルガーナ)経由、アム河北方に移動したのであるから、フェルガーナへはナリン河をくだったのではないかと推測できる。…烏孫はアラタウーケトメンAlatau-Ketmen山脈北麓で、アルマアタAlma Ataから伊寧あたりまでのまちを含むイリ河上流域を冬営の本拠にし、ナリン溪谷を夏営地に持ち、おそらくクチャからヤルカンド附近までのまちを翖侯を通じて牛耳っていた。
p.375
康居はカラタウーキルギズKaratau-Kirgiz山脈北麓で、ジャムブルJambul、フルンゼFrunze、トクマクTokmakのまちを含むチューータラスChu-Talas河湧水地帯が本拠であり、五小王を通じてソグド地方を掌握し、奄蔡(ホラズム)をも傘下に置いていたのかもしれない。…
…桑原の所説と筆者の補足とを以てすると、大月氏のアム上流域移動は張騫が捕らえられてすぐではないから、前130年代の中ごろ、即ち前136、135年ごろであろう。貴霜翖侯から貴霜王への変化という、中央アジア西部における大事件は、それから約100年を引いたほどのころ、前36、35年ごろであったにちがいない。
p.377
「月氏」は、『漢書』以後雅号化したというべきである、
p.378
したがって大月氏麾下の翖侯は前37年までは存在が確認される。すなわち貴霜翖侯丘就却の独立は、多分前36年以後の事件である。…さらに、張騫の大月氏到着は前138年であるから、その時点で大月氏はアム上流域到着以来既にかなりの時間がたっていた。とすると、その100年後である前28年は、丘就却独立のかなり緩い下限である。『後漢書』にいう「大月氏の大夏征服後百余年」におけるクシャーン朝創開は前36年と前28年の間になる。…そして、(1)丘就却独立の年令を20歳から30歳の間のある時期と仮定する。これに、(2)『後漢書』にいう没年齢80余歳を加味する。すると、丘就却の歿年は、前35年に20歳で独立だと紀元26年、25歳で独立だと21年、30歳で独立だと16年。丘就却の死は紀元後の16年と26年の間である。…
 この年齢年代の枠組みによる没年代の幅は、現今貨幣学の多数意見となっているクジュラ=カドフィセスの年代と実はおおきく乖離する。貨幣学の多数派の見解では、貨幣型式からみてクジュラ=カドフィセスはゴンドファーレスGondopharesに先行しないといい、またタフテバーヒーTakht-e Bahi銘文には、ゴンドファーレス在位26年目が103年に当る、と記すという。
p.379
 本論の結論は、上引のゴンドファーレス編年と相容れない。また一方クジュラ=カドフィセスの死亡の下限年代西暦26年からカニシカ登位127年まで100年を数え、そこにラバタク碑文に記録されている2人の王(ヴィーマ=タクトゥとヴィーマ=カドフィセス)が入るとすると、カニシカ2世説にするあわせることも無理である。ところが、既出のカニシカ即位説でもうひとつ有力な年次となるのが、第二次大戦直後ファン=ロウヘイズン=ドゥ=レーヴJohanna-Engelberta van Lofuizen-de Leeuwが提起し、いまやジェラール=フュスマンが主張する78年説である104)。クジュラ=カドフィセスが26年以前のひとという編年はカニシカ即位一世紀説には利がある。私はカニシカ即位年を新たに提唱するのではなく、クジュラ=カドフィセス生存の下限を26年とすることが漢文資料の検討結果として正しいなら、これまで提唱されたカニシカ即位年のうちで78年説は有力候補であるということを言いたい105)。

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1983979367&owner_id=5160461

■私たちの日常と地続きの場所で起きている悲劇…今夏公開の戦争を描いた映画6本
(ウートピ - 06月25日 13:01)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=184&from=diary&id=7009775

連日、メディアでウクライナの戦争の様子を目にしない日はない。日本の若い世代は戦争への関心が薄いと言われてきたが、SNSの普及などにより、リアルタイムで戦争を目にし、また、難民の受け入れや物価上昇などの影響で、より身近に戦争を感じる機会が増えた。

これから夏にかけて、戦争について考えを深めるきっかけをくれる映画が続々公開されている。その中から6作品を紹介する。

戦後も彼女たちの戦争は終わらない…『戦争と女の顔』
第二次世界大戦終戦直後のレニングラード。傷病軍人を収容する病院の看護師イーヤは、戦地に行ったきりの戦友マーシャの子供を育てていた。イーヤには戦争で負ったPTSD(心的外傷後ストレス障害)があり、その後遺症の発作のせいで子供を死なせてしまう。そこへマーシャが帰還して……。

イーヤがPTSDを発症した原因や戦闘自体の直接的な描写はないものの、生きていくために、残酷な選択をすることを強いられ続ける彼女たちは、戦後になっても彼女たちの戦争を生き続けている。

今年の本屋大賞にも選ばれた小説『同志少女よ、敵を撃て』(著:逢坂冬馬)の影響もあり、日本でも話題になっているスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの著書『戦争は女の顔をしていない』にインスピレーションを得たという本作。真っ向から戦争の傷に向き合ったカンテミール・バラーゴフ監督が1991年生まれの30歳と聞いて驚く。

日本でも戦争の記憶の風化が進み、実際に戦争を体験した人から直接話を聞ける機会もなくなりつつある今、これからは戦争を知らない世代が、知らないながらもその悲惨さを伝えていかなければいけないということを改めて考えさせられる。

7月15日(金)より新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開
配給:アット エンタテインメント
公式サイト https://dyldajp.com/

ポーランドと朝鮮半島の共通点『ポーランドへ行った子どもたち』
同じく戦争を知らない世代が戦争を撮るという意味でも、非常に興味深いドキュメンタリー映画が『ポーランドへ行った子どもたち』だ。

子供への愛着や不安のために産後うつになったチュ・サンミ監督は、偶然、1950年代に朝鮮戦争の戦争孤児が約1500人も北朝鮮からポーランドへ秘密裏に送られたことを知る。チュ監督は、命がけで北朝鮮から脱北してきた過去を持つ大学生イ・ソンを連れてポーランドを訪ね、かつて孤児たちを受け入れ、わが子のように育てたポーランドの教師たちを取材する。本作は、懐かしそうに子供たちの思い出話をする教師たちと、韓国でもほとんど知られていなかったこの事実に向き合うチュ監督とイさんの姿をとらえている。

ポーランドといえば、最近、ウクライナからの難民を積極的に受け入れている隣国としてメディアでも頻繁に取り上げられている。ポーランドも歴史的に長く他国に侵略され、苦しい戦争を耐え抜いてきた国。チュ監督が繰り返し口にする、ポーランドと朝鮮半島は「傷による連帯」でつながっているという言葉が印象的だ。

ポーランドの教師たちが、北朝鮮から来た子供たちに注いだ愛情への好奇心を隠すことなく、質問を重ねていくチュ監督。その好奇心は、元脱北者の女子学生にも向けられる。時折、韓国の女性と北朝鮮から逃げてきた女性の感覚の違いも見え隠れして、はらはらさせられる場面も。次々語られる歴史的事実はもちろん、次第にこの作品がチュ監督自身の気づきと反省の旅に色を変えていくところも興味深い。

全国順次公開中
配給:太秦
公式サイト http:// cgp2016.com

人気観光地・済州島に隠された真実…『スープとイデオロギー』
直接戦争を描くわけではないが、朝鮮半島の歴史を知るドキュメンタリー映画として、『かぞくのくに』(12)などで知られるヤン・ヨンヒ監督の最新作『スープとイデオロギー』も必見だ。

「愛の不時着」などドラマや映画のロケ地などにも使われ、観光地として日本人にも人気の韓国・済州(チェジュ)島。近年まで韓国では語ることすらタブーとされてきた1948年の軍・警察らによる無差別虐殺事件「済州4・3事件」について、ヤン監督の母親が証言を始めるところから映画は始まる。

これまで、父親(05年『ディア・ピョンヤン』)、姪(09 年『愛しきソナ』)を主人公に2本のドキュメンタリーを撮ってきたヤン監督。北朝鮮に暮らす子供や孫に仕送りし続ける両親や日本と北朝鮮の2つの祖国に翻弄される理不尽な現実への反発、北で暮らす家族への思いを綴(つづ)ってきた。

母親がアルツハイマーを患い、記憶があやふやになる中で、初めて語られる「済州4・3事件」の真実と、ようやく気づいた両親が韓国ではなく北朝鮮籍を選んだ理由。さらに、「母が負担だった」というヤン監督が、夫という新しい家族が加わることで、母親と新しい関係を築いていく母娘のストーリーも胸に迫る。

大阪・生野区で生まれ育った監督のオモニ(母)が、娘とその夫となる人のために、心づくしのスープを作る。外から見ると「普通の大阪のオカンと、その娘夫婦の和やかな食卓」風景だが、この家族の暮らしは常に“政治”の影響を受けてきた点で異なる。

「私は差別などしない」と信じ、「あなたの出身など気にしません」と、「気にしない」ことがフェアであると思ってしまいがち。だけど、同じ日本で生まれ育った在日コリアンの暮らしや歩みを「気にしない」でいいのだろうか? 本作をはじめ、ヤン監督の一連の作品からは、その答えを考えることを問われているような気がする。

全国順次公開中
配給:東風
公式サイト https://soupandideology.jp/

アニメで描かざるを得なかった事情は…『FLEE フリー』
続いて紹介する『FLEE フリー』もまた、貴重な体験者の証言をもとに作られたアニメーション映画だ。今年度のアカデミー賞で国際長編映画賞、長編ドキュメンタリー賞、長編アニメーション賞の3部門にノミネートされるなど、世界的に高い評価を得た。

アフガニスタンで生まれ育った主人公アミンは、命からがら祖国を脱出し、家族と離ればなれになりながらも、数年かけてデンマークへ亡命を果たす。30代半ばになり、努力の末に研究者として成功を収めたアミンが、自身の体験を語るという形で映画は進行する。

アミンの壮絶な体験を見進めていくと、証言者を守るために、アニメで描かざるを得なかった事情がよく分かる。また、アミンはゲイであり、性的指向への葛藤を抱えながら10代の多感な時期を逃げ続けた“居場所がない”苦痛と、心に受けた傷の深さは、察するに余りある。

アミンもまた、世界中に大勢いる難民のうちの1人である。ウクライナからの難民の受け入れがニュースになっている昨今だが、アミンのような人が世界中に無数にいることを胸に刻みたい。

全国公開中
配給:トランスフォーマー
公式サイトhttps://transformer.co.jp/m/flee/

実は8年前から続いていたウクライナ戦…『アトランティス』『リフレクション』
最後に、ウクライナの戦争が実は2014年から続いていることを教えてくれる映画2本を紹介する。どちらもロシアのウクライナ侵攻による悲劇を描いた、ウクライナのヴァレンチン・ヴァシャノヴィチ監督による作品だ。

『アトランティス』
本作は2019年の作品だが、“戦争終結から1年後の2025年”を想定した近未来映画になっている。戦争で家族や友人を失い、PTSDを抱えた主人公が、兵士の遺体発掘・回収のボランティアに参加している女性と出会い、生きる意味を自問していく。

舞台となっているのはウクラナ東部のドンバス地方。撮影はマリウポリで行われたという。

たとえロシア軍が去っても、環境は戦禍によって破壊され、人々は戦って守り抜いた土地を去るか否かを迫られる。まるで、これからウクライナに起こることを予見しているかのようで、やるせない。同時に、そんな環境でも芽生える愛情に、微かな希望を感じさせる作品でもある。

『リフレクション』
こちらは同監督が『アトランティス』のあとで撮った2021年の作品。舞台は、時を戻してロシアによるクリミア半島侵攻が始まった2014年になっている。

主人公は外科医のセルヒー。兵士たちを救いたいと従軍医師になるが、東部で人民共和国軍の捕虜となり、捕虜収容所で拷問など非人道的な扱いを受ける。やがて捕虜交換でキーウの家に帰還するが、心に受けた傷は大きく、娘のポリーナとの暮らしで何とか日常を取り戻そうとするのだが……。

あまりにも人の命が軽々しく扱われる描写に身の毛がよだつ。娘のポリーナが死んだ鳥の命と丁寧に向き合おうとする姿を対比させ、命の尊さと、この国で日常とあまりにも近い距離に地獄が存在する異様さを際立たせる。

ウクライナで起きているかもしれない光景、これから起こるであろう光景に暗たんたる気持ちになるが、今ぜひ見ておきたい2本だ。

6月25日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
配給:アルバトロス・フィルム
公式サイト https://atlantis-reflection.com/

どの作品にも共通するのは、たとえ戦闘が終わっても、戦争というものが関わった者に心身共に癒えることのない傷を残すことを訴えているということ。

私たちの日常と地続きの世界で今も続いている悲劇から目を背けてはいけないと、教えてくれる作品たちだ。

(新田理恵)


0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2022年12月>
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031