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2022年11月12日02:26

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ワンダーや!

7年ぶりの刷新 トヨタ、新型「プリウス」を11月16日に発表へ
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=128&from=diary&id=7183715



車の事で思い出したことがある。現在、ヤングマガジンで連載中の、「ファブル」を執筆されている南勝久先生の原点、「ナニワトモアレ」及び、第二部の「なにわ友あれ」についてであった。

2000年から2014年まで、つまり私が中学に入る前から、20代の半ばになるまでヤングマガジンで作品に触れることはなかったにせよ、それでも同じ時代を駆け抜けたという意味では、実に感慨深いものがあったのである。

この時代は、岡本倫先生のエルフェンリートやノノノノ、極黒のブリュンヒルデもそいだし、レミオロメンがイケイケだった事もそうであるが、時代の潮流や、あるいは「人間のB面、本音」を炙り出すような、単に私好みと言えばそれまでではあるが、そういった作品が、漫画や音楽に問わず、多く世に出た時期であったと考えている。




そういう時代の中で、正確には第二部の「なにわ友あれ」からではあるが、2014年に最終回を迎えて、ネットに私と同じように終了を惜しむ声がないかと、ブログや2chを覗いていたのである。




その中で、とても興味深い記事を見つけたのであった。多くの人たちは、面白かったや、つまらなかったかったなど、感想を各々述べた後で、だいたいは「連載お疲れさまでした」という労いの言葉をかけていくという流れが大半だった。




ただ、一つだけは、明らかに違う意見が出ていたのである。それは、以下のようなものであった。




「この作品に通底するテーマは、『どれだけ狭い世界で有能ぶったところで、社会的な面で見れば、彼は間違いなく、社会的弱者に他ならない』と、意外にも作者のメッセージは暗いものであった」というものであった。




私はこれを見た時、ハッとした気がしたのである。同時に、まだ半信半疑な気持ちがあり、腹落ちしているとは言い難いものであった。



ただ、私としても、この意見に段々賛同するようになった。





ナニワトモアレの劇中、ユキを売春に売り飛ばそうとしたホークの二人を、プラウドのナオキがボコり、ある工場で罰として拷問をかますシーンが登場する。そこまでハードな描写ではないものの、プラウドレーシングの一人、タクが次のようなセリフを吐いた。





「この二人、調べてみたけど、、、まあ〜ロクなもんでもないですわ、とっくに親にも見放されてますわ!」と、拷問する前から、「こいつらは拷問されても仕方もない、どうしようもない人間」という事を、理由付けしていたのであった。





しかし、時が進み、正月のパレード(もちろん、祝い事という意味ではなくて、一般車を巻き込み、他の環状族とわざわざ抗争を引き起こし、一般人や警察に思い切り迷惑をかけまくる反社会的な行為、及び暴走行為である。もちろん共同危険行為も含まれる)の最中、女を侍らせて、外車で環状線を走っていた一般車のボンボンに、次のようなセリフを吐かれたのである。




「な、なんやねんアイツら、ナンバープレート隠して、猛スピードで爆走しやがって……どんな教育受け取んねん、まったく、親の顔が見てみたいわ…!」と。





その、走り去った車の群れのバックガラスには、「プラウド」のカタカタでカッティングされたシーンが描かれていた。これは私が思うに、作者が意図的に行ったシーンではないだろうか。




あんたたちが、ホークれーそんぐの二人に吐いたセリフっていうのは、一般人から見たら、大差ないどころか、まるっきり「同じ穴のムジナ」である。たまたまそれが、婦女暴行か、あるいは、大事故に繋がりかねない危険行為かだけの違いであり、プラウドが正義で、ホークレーシングだけが悪というような幼稚な構図ではない。彼らが畢竟、コインの裏と表であり、立場変われば、プラウドやトリーズンの面々が、一般人から拷問を食らっていたって、何ら不思議ではないのである。人の身や命の危険にさらしたという意味では。






その後も、「ゼンのボケ〜」とプレストのサメケンが毒づいたシーンの直後に、バッドラック弟のカクジが、「サメケンのボケ〜」と、もちろん本人には聞こえないであろうが、つぶやいたシーンがあった。他者から見たら、ボケどころか、はっきり言って、存在してはいけないような人種である。ヤンキーの世界ではありがちであるが、仲間以外の人間や世界はどうでもいい、という考えの人たちが多く、彼らが一人で社会で生活している時で言えば、確実に周囲からつま弾きにされた「社会的弱者」に他ならないだろう。




この視点というのは、例えば先日、ソードマスターヤマトばりの超展開を迎えた、ほぼ打ち切り状態であると推察できる「東京リベンジャーズ」のように、東マン最高!「仲間を守る」ための暴力を、ほぼ全肯定しているような作風とは一線を画していた。例えるなら、ヤンキーの生態を、外側から眺めていた、「闇金ウシジマくん」の真鍋昌平氏の観察眼のそれに近い目線も感じていた。ここに登場するような、会社員や、ヤンキーたちも、どれだけ仲間内で上下関係にこだわったり、気の弱そうな人間に付け込んできたとことで、他人から忌避されている、そして無論尊敬もされていない、はっきり言ってクズそのものであり、ひとたびその「ぬるま湯」から外れたら、もちろん相手になどされない、というか、そもそも相手になどされていないから、クズ同士が集まって、ひたすら傷を舐め合っていたのであった。




ちょっと話が逸れるが、私は他人に対して「こいつ」とか「アイツ」って言葉は、はっきり言ってほとんど使った事はない。それはなぜかというと、この言葉に、単純に良いイメージが湧かないからである。





それは、二人以上が、何か話題を見つけるとか、あるいは結束を強めるために、「共通の敵」を作る必要があるからであろう。換言すれば、そうしなければ、速攻で瓦解してしまうような「脆い」関係であるからに他ならない。







そして、第二部の「なにわ友あれ」では、プラウドを尋ねてきたテツオに対して、プラウドレーシングの面々が、その者について話すシーンが登場する。以下のようなものであった。




「タク、テツオの事を調べてみたけど、ありゃ、ロクなもん違うよな〜」



「そらお前…俺らかて、そんなもんやろ」と言っている。決して、プラウドレーシング最高などと言っているわけでなく、やはりタクに、作者の本心を代弁させているように思えてならなかった。とどのつまり、自分たち自身もロクなものじゃない…と。






この作品に言えることなのだが、私と意見で恐縮だが、ストーリーに脈絡なく「何でこのシーンが入ったの?」という時であったり、中卒の方々ばかりで、やれ環状族や、抗争や、走りが速いで〜!」などと言って、日当だの土方だの、もろにブルーカラーの人々が大半の中で、エニシングレーシングで、家が金持ちの会長のブンヤや、大学に通っている、ナツに片思いしているヒデキなど、明らかにこの作品の世界観で「浮いている人間」が登場する事があった。あるいは、抗争について、嬉々として語っているすぱーきレーシングの面々の軍法会議の中で、パンダマンが「?何でこの人たち、こんな争い事で嬉しそうにしてんの?」と訝しるシーンも登場する。これは、前作「ナニワトモアレ」に登場する、ヨネにも言えることではあるが、環状族とは、一歩離れた視点を持つキャラクターが登場した場合、あるいは、明らかにかけ離れた人間が登場する時、それは速い話、「作者のシャドー」なのではないだろうか。




南勝久氏自身は、自分は中卒であり、各業界を転々としながら、最終的に漫画家になることができた、とインタビューで語っている。しかし、私が思うに、本当に中卒ですぐに働かなくてはヤバい人は、そもそも収入や身分が不安定な漫画家になど、なるだろうか。だいたいこういう方々は、実家が太いので、ある程度のチャレンジが許されるのではないだろうか。「貧乏暇なし」などというが、おおよそ心根が貧しい人間というのは、無意味に忙しぶることを由としている節があった。もし立ち止まって、暇な状態になってしまえば、自分が無価値な人間であるという事を、嫌というほど思い知らされるからであった。





そして、南先生が、もしもそういう手合いであったとしたら、漫画家になるといった発想になるだろうか。もし書いていたとしても、自分を肯定するために、「環状族最高!!」などと言った主張をするキャラクターばかりになるだろう。間違っても、「狭い世界で有能ぶり、一般の人たちから忌み嫌われているクズ」などと言った、冷めた目線を持つようなキャラクターが登場するだろうか…



ただ、これは確信に近いのだが、仲間との友情などとは言っているが、作者の南勝久氏自体が、彼らのことを、もっと言えば、若い時分に関わった環状族のメンバーというのが、好きでも何でもないのではないか。もっと言えば、大きく矛盾しているようにも聞こえるが、環状族をテーマにした作品でありながら、作者にとって、その環状族が忌むべき存在として、胸にあるのではないか、という気がしてならなったのである。





その証左と言っていいのかどうかは分からないのであるが、次回作の「ファブル」では、冒頭から、回想のシーンで「鮫剣組」が、ファブルに全滅させられたり、物語の後半ではハマダヒロシという組長が暗殺されたり(ハマダもヒロも、ナニワトモアレの主要人物である)、前作第二部の主人公「テツヤ」そっくりのキャラクターが、武器商人の「マツ」に文字通り瞬殺されたりと、やはり作者は、「分かって」て、こういった演出をしている、という気がしてならなかったのであった。ハマダは裏世界の住人であるし、サメケンやヒロは「仲間以外はどうでもいい」の一方では怪力、もう一方では、モンキーレンチで他人に危害を加えるなど、おおよそ一般人の感性からはかけ離れている。中でもテツヤに関して言えば、無関係の人間にも危害を及ぼすなど、マーボが制裁カマしたぐらいでは、全くとっていい程、清算できないような真似をしてきたのである。それらが、ファブルのキャラクターたちに一掃されたということは、これはもうひとえに、作者が「なにわ友あれ」のキャラたちの事を「好きでも何でもなく、むしろ唾棄すべき存在」と捉えてと考えて間違いなさそうである。もし、お気に入りのキャラクターであるなら、そのような扱いはしないだろう。明らかに、テツヤたちに関して、作者自身が後ろめたい感情を抱いていることの証左に他ならなかったのである。




一つ断っておくが、自分が三度の飯より好きな漫画は、って聞かれると、やはり現在進行形で「ナニワトモアレ」を上げずにはいられない、それぐらい好きな漫画といえる。




ただ、現在進行形というのは、ただいま読破中であって、もう一回見返すかと聞かれたら…おそらく、ほぼ見返さない。お気に入りだから何度でも読む、と言った類のものではなく、何というか、「自分が本来持ちえたであろう生活や感覚」といったものを、一つずつ確認していくような感覚であると同時に、一度経験したら「ああ、こんなもんか、もうええわ」と言った気持ちになることは、疑う余地がないと言えるだろう。確かに、車のスピードやケンカで、一時的に良い気持ちになり、「同類」同士が集まって、自分のやっている「笑えない」事を正当化している時はさぞかし気分がいいだろうが、それを時が経ってから見返すとき、ほぼ確実に見たいと思わない。なぜなら、それだけ「狭い世界で有能ぶる」というのは、ダサい行為であることを、否が応でも突きつけられるからである、無論容赦なく。






「なにわ友あれ」の最終回間近では、ラスボスである「ブラディレーシング」の会長であるシュウ(もちろん社会的意義がある会長ではなく、単に暴走族の延長で、反社会的な行為で有能ぶりたい阿呆代表の意味での会長である)が、次のようなセリフを言った。



「何年か経って、自分たちの子供にこんな事を語れるか?」


「(ぐっさんらのスパーキーレーシングに対して)俺が作りたかったのは、こういうチームや!」と称賛していたのではあるが、皮肉にも、作者自身が、この時代に登場した「英雄」たちを、悉く屠っているのが、まことに痛快である。そして、ファブルで始末されるような連中というのは、ヤクザや半グレなど、正に「唾棄されるべき存在」たちであることは、誠に作者の意趣返しであろう。何に対して?それは、ナニワトモアレの如き、輪姦や覚せい剤、共同危険行為などを正当化して、そこに流されてしまった自分自身に、そして「そんなもん」に巻き込んでくれた、「いなくなって、せいせいするような阿呆でも」に対して、復讐しているのではないか。そして、ブンヤやヒデキ、そしてヨネなどは、作者のシャドーであると同時に「良心」である気もしたのである。



つまり、作者自身が環状族だった時分、「笑えない行為に加担している」自分から見た時の「良心」であるのが彼らであり、同時に「一般人」の部分から見て、作者にとってのシャーというのは、もはや「ナニワトモアレ」の登場人物の大半であろう。





ただ、私自身も一つ思うのは、どれだけ周りに「笑えない行為」に流されそうになっても、それを踏みとどまるのは、自分の意志である。そういう『自分の心の声を信じて生きていく』と決めた以上、その反対側の住人が、どのように反応して、そしてどのように行動するのかは、やはり覚悟しなくてはならないが、それが出来る人間などほとんどいないし、もしそれが可能であるならば、今頃、南勝久氏は、環状族を舞台にした漫画も、そして、彼らを意図的に「殺戮」するような作風の作品を執筆などしないはずである。




ヤンキーが成り上がっていく漫画でありながら、絵の上達、上手さに反比例して「生々しい描写」を書き連ねる…というのは、ハンターハンターの富樫氏や、音楽家であるレミオロメンの藤巻氏に通じる部分があった。「天才」といのは得てして、世間が望んでいるような努力がへっちゃらであるような人間であり、そして「言葉に気持ち」を乗せられるような人間である−−−−−−漫画家と音楽家の違いはあれど、「言葉」を生業にしている点では同じ―――無論「同族嫌悪」ではなく、同じ高みである存在、という意味である−−−−−タイプの人間に他ならないのであろう。



キャラクターや歌詞から、自分の言葉を「ひねり出す」ことを旨としている人間というのは、やはり凡百のそれらとは、一線を画すものであると断言できる。そして、こういった人たちというのは、凡百の方ではなく、言葉に「責任」が持てるし、それゆ故に「宿る力」というものも、もちろん持ちえるものであった。




一方で、自分の言葉や言動に「責任」など持たない人種も、無論存在する。




偏見で恐縮であるが、言語を操る能力が、男性のそれとは比較にならない程発達している女性であったとしても、その多くは、自分の言葉に自信が持てないのである。







では、男の方はというと、私の経験で申し訳ないが、「男の一人っ子」に関して言えば、「アイツ」「コイツ」を連発して、てっとり早く仲間を作るような、それでいて思いっきり脆く、何一つ尊敬も承認もない、ぺらっぺらの言葉を使うのは、この手の人間が多かった。







そして、私はは早くに気が付くべきであった。




「世の中には、親切にするなどまるで値しないような人種が存在しており、この手のボケは、他人を使わないと自己が保てないので、そのターゲットの自尊心を徹底的に搾取する」と。





僕は、怒ることってのはほぼ皆無であったが、やはりそれも我慢がならないことがある、「一線を越えたもの」に対しては、文字通り「物理的、そして精神的な死を以て、償って」もらうしかないのである。





映画「聲の形」の主人公、石田少年が、しょう子に「生きるのを、手伝って欲しい」というシーンがある、そして物語の核心には敢えてぐれないが、少年の抑え込んでいたものが、涙になってあふれ出したシーンは、私も涙腺が緩まざるを得なかった。




ただ、私がここで言いたいこと言うのは、この作品のように、ただただ、最後は報われて、希望が見えてよかったね、といったある意味幸せな世界ではなく、やはり現実というのは、「生きるに値しない」人間というのは存在しているし、他人に対して一線を越えた人間というのは、私からすると、「そいつが死ぬのを、ぜひ手伝わせてくれ」という感情しか、少なくとも私は持ちえなかったのである。




これを防ぐには、日ごろから恨みを買う対応をするといった気持ちが大切あろうが、しかし大切な事に気づくときというのは、これまた往々にして手遅れであることが多く、そして過去に行ってきた「行為」を無かったことにするなど、無理に決まっているだろうが。




「死ぬのを手伝う」っていうのは、畢竟、復讐や仕返しに他ならないし、それこそ「ナニワトモアレ」の世界線の如く「きっちりケジメをつけにいく」あるいは、「揉めたらとことんやる、それが環状族ってもんや!」というような、笑えない行為には、はやりそれ以上の「死の恐怖」というものを、そのボケにきっちり味合わせる必要があるということは、やはり言うまでもないのであった。


「男の一人っ子」に対して、どうしてそこまで気になるのか、それはひとえに、彼らによって私は被害を受けた人間の一人であり、物事の不和の原因になったそのボケには、きっちりケジメを取りにいくことは、当然のことであると考えるのである。単純に考えてみて欲しい、わが子が、イジメの発端になり、そのことに対して「何が悪いねん」と考えているうちに、ある人間が、「シバキにきました」と言って追いかけてくるとする。



その時、その「一人っ子の男の親」は、わが子を庇うのだろうか。もし庇うんだったら、残念だけど、アンタも巻き添えになってもらうよ。俺も一線を越えられた以上、そんなクズに関わることはないし、「その前に」シバキ回すなど、当たり前の事である。




「相手にされないので、構って欲しくて、ちょっかいをかける」




「癇癪を起す、怒り散らかす、そして周囲から距離を置かれる」



「距離を静かに置かれるだかならいいが、中には俺の如き『心の病気』を抱えている人下もおり、そいつに責任転嫁をかまして自分の非を認めずに振舞っているが」




「その人間というのも阿呆ではないので、次第に『自分が何をされていたのか』そして、『それだけの笑えない真似を自分に出来るほど、何かコイツは特別な存在か?』と洗脳が解け」




「その後は、ケジメを取りに行くと、ぶち切れて追いかけてくるような人間を前にして」





「そいつがとる行動はただ一つ、『ビビッて逃げる』であり、また別な集団でターゲットを見つける」を繰り返す…である。



そのクソの生態とか茶番とかがどうでもいいから、早くそのケジメを付けてこい、という話である。





お気づきかもしれないが、私が「コイツ」とは言わないと言っておきながら、それを使っているし、その一方で、『そいつ』という言葉は頻繁に使うのである。





『アイツ』や「コイツ」というのは、目に見えて対象を認識しているのに対して、『そいつ』というのは、俺を含めその場に2人以上いるものの、その内の一人には少なくとも、『対象』というのが目視出来ない状態でいるからであった。




前者は、親しくない人間と成り行きで固まる時に、他人をターゲットにするという意味で有効であるが、一方後者の場合は、若干『期待と不安』が入り混じっているような状態であると考えている。だってそりゃそうだろう。「不確実な人間」を分析することは、相当な努力を要し、前者とは比較にならない程の困難な作業であるのだから。




続く


































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