いよいよ大惨事もとい第三次世界大戦か、
と怯えて暮らさねばならない日が近づいているのだろうか
振り返ると人類は、いや日本人も
「このままじゃ、まずい」
と知りつつ戦争に突入したという、愚かで悲しい過去を背負っている。
少し前に「NHKスペシャル」かなんかで特集されていたのだが、
日本はどうして勝ち目のない戦争に突入する事になったのか?
という疑問に対して、色々と近年明らかになった研究結果で検証する、
というのがあったが記憶されている方もあるかも知れない。
タイトルは忘れたが、松平アナがストーリーテラーだった奴である。
そもそも第二次世界大戦における我が国は
太平洋戦争が始まった1941年の時点では、
我が国は後戻りできない状況になっていたのであって、
確実に指摘できるのは
報道や大本営発表等によって
軍部が国民に対して戦争が歓迎されるようなプロパガンダが
既に整っていた点が指摘できる。
つまり国民全体に「戦争は、すべきだ」と認識させていたという事実である。
その背景の一つに挙げられるのは
当時の陸軍が戦争に特に積極的だったという部分である。
既に「内部統制力」を失いつつあった大日本帝国陸軍は
明治からの軍のリーダーで
元勲である山縣有朋主導の陸軍体制と
それに反発する反体制派で繰り返し
派閥争いをしていた事で混乱状態にあったのである。
どちらも戦いに勝利する事で主張を通そうとしていた、という
国民不在の戦争への誘導があったのである。
明治に入り、日清戦争(1894-1895)、日露戦争(1904-1905)と
形の上では戦勝した我が国だが
その講和に於いて大きなメリットは得られなかった。
日清戦争は、
朝鮮半島への出兵や進駐を巡り対立を深めていた李氏朝鮮の宗主国「清」と
日本海での「制海権」確保のために朝鮮進出を強く望んでいた日本との戦いであり、
日本が朝鮮進出に舵を切ったのは
崩壊寸前の李氏朝鮮が多方面外交を展開し立ち行かなくなっていたからである。
この点は1000年余りも自国の政治方針に主体性を持たなかった、
否、儒教的世界観に主体性を委ねていた李氏朝鮮のミスリードである。
ロシアまたは日本を朝鮮半島に呼び込んだのも李氏朝鮮だが、
宗主国の清に擁護してもらう保守路線に固執もしていた理不尽である。
後年の研究からも全く理解に苦しむ玉虫色の方針決定であり、
この迷走が日清戦争を呼んだと言っても過言では無かった。
交流を始めて千年も経過してから
中華皇帝しか使えない「皇」の文字を日本の「天皇」が使用しているのを理由に
外交を中断するなど国際的にも意味不明ぶりである。
一方で「日本」「清」「朝鮮」が手を組んで欧米列強に対抗しよう、
という空気が極東のみりたりバランス上では生まれつつあったので、
利害の一致をもって日本と中国は「天津条約」を締結し
ゆるゆると前進していたにも関わらず、
日本軍が駐在する朝鮮に進駐した清軍に撤兵を要求したところ
これを拒み日清両軍の睨み合いが急激に衝突に向かっていったのである。
この当時の日本は海を渡らねば補給も輜重もままならないという苦しい状況で、
その中では黄海など日本海側の制海権を得る事は必須となっていた。
また中国にはその頃、李鴻章率いる北洋軍閥が軍務を担っており、
世界最大級の軍艦「定遠」らが備える海軍が存在していた。
我が国にはその技術力も経済力もない状態であり、
海戦では勝ち目がないと考えていたので
出来れば「対清国」戦争は避けたい、
その上で手を結んで迫り来る欧米に対抗したい、
という考え方が強かったのである。
換言すれば陸上では辛うじて対抗しえるので
その分、陸軍が幅を利かせていたのである。
その中で進められた「朝鮮軍の近代化」の過程で、
旧式の軍属が反乱を起こすなどし、
挙句の果てに近代化の教育のために派遣されていた日本の軍隊を排除し、
事もあろうか鎮圧に清軍を呼び込むなど“火に油”を注いだのは
他ならぬ間抜けな李氏朝鮮である。
無論、朝鮮民族が間抜けだなどという積りはない。
当時の政権が政権を担うだけの軍事的知見を持たなかった、のである。
そこで起きた農民の反乱を契機に戦闘が始まり、
日清両軍を国内に招き入れ開戦に到ったのが
「日清戦争」の始まりだったのである。
ところが、歳費の欠乏に苦しむ清朝は
西太后の横暴で頤和園などの改築費用捻出のために軍費を減らし、
日本は天皇ら皇族が私財を投げ打って軍事費に充てるなどして
思わぬ僥倖で事態が逆転。
黄海の海戦では清軍の大型戦艦を打ち破るなど戦果を挙げたほか、
陸戦では属国の朝鮮で更にダメージを受けたくない北洋軍が
自国まで撤退して“引き付けて迎え撃つ”策を採るなどしてなどで後退、
(これが結果的に失策だった)
結果的に海軍の補給線限界近くの海軍基地まで日本陸軍を呼び込んでしまい、
日本は本来なら勝てる見込みの薄かった「日清戦争」に
日本は勝ってしまったのである。
言い換えれば、日本陸軍が清の海軍を陸上で攻略した、
そういう戦争になってしまったのである。
一方、帝国陸軍には山縣を中心とした守旧派勢力が
依然として行き当たりばったりの軍拡を図ったため、
青年将校らによる改革の機運が高まっており、
後に「統制派」と呼ばれるグループに発展する
「一夕会」など陸大出身者らで形成するエリート集団が現れていた。
山縣にしても土台無理のある国際競争に挑む国策に対して
苦心の上で選択した軍拡であり、
エリート集団が海外で学んだリアリティと政治、
特に国際感覚がまだ未発達の国民と向き合わねばならない政治家や
始まって間もない帝国議会との調整は困難を極めており、
どう選択しても反発必至の状況だったことは間違いない。
山縣が下した選択はどちらを向いても統制派の批判の対象になる。
そういう状況だったのである。
朝鮮半島では、後に「大韓帝国」となる李氏朝鮮が閔妃による暴政で崩壊寸前であり、
南下政策を始めたロシア帝国が迫る状況だった。
何度も言うが、朝鮮民族の心の拠り所たる李氏朝鮮は
政権担当能力が欠如していたため、自滅したのである。
近代化を恐れていた部分もあったのだろう。
それでも先進的な朝鮮人の多くは
当初は遅れた近代化を取り戻すべく、
少しだけ早く「維新」により近代化に成功した日本を呼び込んで
日朝清の連携を目指していたのである。
言い換えれば、日本を利用しよう、
清には自分たちの代わりに犠牲になってもらおう、と
考えていた筈である。
南下を進めるロシアに対抗するため、
当初は半島に日本軍を迎え入れていた閔妃だったが、
政敵である大院君に追放されると
自己都合で清やロシアに助けを求め、
遂には清軍を半島に呼び込んでしまうのである。
清軍は兎も角、清王朝は李氏朝鮮よりももっと旧い考え方の大国で
近代化の障害になってしまう。
極東が李氏朝鮮の迷走でロシアに侵略されてしまう、
そこから守ろうとして進出した日清両国が朝鮮半島で衝突したのが
それが日清戦争に至った直接の原因である。
日清戦争ではのべ16000人以上の犠牲者を出しながら、
戦後賠償などを得た日本だったが、
せっかく得た遼東半島は「三国干渉」によって即刻返還する事になった。
しかも、このことで欧米列強は戦争による領土の獲得ではなく
「租借」という形で漁夫の利を得る動きに転じ、
これがナイスアイデアだと知ると活発化させていくのである。
軍艦「定遠」を破る大金星を挙げ、
半島では戦意が足りない清軍が後退戦略を採ったため、
前述の通り補給線を断たれてしまった李鴻章率いる北洋軍は孤立し
最後は追い詰められ、日本はまさかの勝利に至ったのである。
これもまたアジア最強だと目されていた清軍が自滅したと言ってもいい。
日本軍が実力で勝ったわけでは無いのである。
そして、永らく「眠れる獅子」と呼ばれ、
アジア最大にして最強の帝国だった清王朝は、
アヘン戦争からの「三連敗」でいよいよ死に体となってしまった。
この時に日本国民は戦勝に沸きに沸いた事は云うまでもない。
アジアの盟主は日本だ、と少し思い上がった感情を抱いたのである。
前頭中位の力士が大横綱を破るくらいの、
或いは高校生チームがプロ野球球団に勝つくらいの快哉をあげたのは当然である。
それが引退間際の双葉山と後の大関貴の花或いは、
12球団最弱の暗黒時代の阪神と高卒ルーキーで最多勝を挙げた松阪擁する横浜高校の試合で、本当は意外でも無かったとしても、である。
欲張って戦時賠償に遼東半島の「割譲」まで取り付けた下関条約だったがー
日本はイギリスとのみ組んで対清政策を進めようとしたため、
イギリスと対立もしくは拮抗関係にあったロシア、ドイツ、フランスが
「俺達が今まで控えて来たのに、
後から出しゃばって来た日本が(北京の近くの)遼東半島を奪うんなら、やるぞ!こら」とカランで来たのが「三国干渉」である。
既にヨーロッパで対峙していたこの三国は、
ロシアが極東に進出しやすくする方向で
互いに利害が一致していたのである。
実力はまだ三流の我が国は三国干渉に反発するだけの国力は持ち合わせておらず、
戦時賠償を更なる国力増強に向けるほか無かったと言って良いだろう。
結果的にこれが国力アップにつながったのだが。
それから更に10年が経過すると、
再びロシアが進める南下政策と衝突し、日露戦争が勃発する。
ただ、日清戦争は欧米からみれば、
アジアの小国がアジアの大国に勝ったに過ぎず、
少なからず日本に対する意識は変わったものの、日本が自国に対する脅威
であるとは思われていなかった。
彼らの意識を変えたのは、義和団の乱(1900年)で日本軍が活躍し、
日露戦争の日本海海戦でまさかの大逆転勝利を収めたからである。
都合よくこのタイミングでロシア革命が激化し
戦争継続能力が劇的に低下したロシアは敗戦した。
というか自滅したのである。
やはり、この当時は世界最強と恐れられていた
ロシアのバルチック艦隊を破っての大金星による「勝利」ではあったが、
日清戦争同様に日本側にダメージが大きく、
また革命が起きるなどロシア側の政情が悪化したため
アメリカの仲裁で講和を結んだに過ぎない。
この時の多大の戦費は日本経済に暗い影を落としたばかりか
日本が「戦下手」である事を露呈し、
しかも戦後賠償で得るものが少なかった事で、
いよいよ「資源の無い国」の窮状が露呈した、というのが
第一次世界大戦前の日本の前段階だったのである。
1914〜1918年に起きた第一次世界大戦では
日英同盟に基づき「戦勝国」となった大日本帝国であったが
既に趨勢が見えたところでの「参加」に価値は薄く
国民は徒に大陸進出を夢見るようになり
国際的にはいけ好かない、態度だけデカい極東の小国として
扱われていた事を、一部の政治家以外は認識していなかったのである。
沸く国民に、お寒い軍事力。
そんな環境で本格的な侵略戦争を行うだけの国力は無かった筈である。
大きく端折るが
冷静になって自国の位置を判断出来ていない世論に後押しされて
海戦に向かっていったわけであるから、太平洋戦争は「負けて当然」からの
逆転を目指していた戦争だったと言えなくもない。
それは実現せず、見ていた夢も国の主権ごと潰されていく事になったのである。
これらことからも我々は学ぶべき事実は幾つもあると思うが
誰かが引き金を弾かない事を願うばかりである。
■中ロ爆撃機が共同飛行=クアッド首脳会議けん制か―防衛省
(時事通信社 - 05月24日 20:01)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=6969087
ログインしてコメントを確認・投稿する