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2022年05月10日00:01

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ゆちゃく




剥げた親指の皮の先のピンク。血は出ない。普段見えないところだからグロテスク。ただ少し、美的でもある。普段は意識されない体の部位が染みて痛いというのもなかなかの趣。普段はむしろ守られているのだよな。


夢に鍵がたくさん出てきた。何処かの部屋に入るためのものではなく、外を歩いて回る展示会のオブジェの一部の模様。何故か設営側に回っている。主催者がこの前会話できそうでできなかった年下の某演出家さんだった辺り、そうイメージが構築されているらしい。

鍵を構成物とするオブジェってなんだろうと思うが、なにやらソフトダーツのチップ(先っぽ)も含まれていた。今解釈すると、鍵は開くというより閉じ込めるものだよな。チップは分からん。連想すると官能的にもなりえそうだから省略。

打ち上げの飲み会があるらしいが、僕は誰かと映画の待ち合わせをしている。そして片付けが長引いて映画には間に合わなそうになってくる。急いでいると森の中の空き地でソフトバレーボールでサッカーをしている少年たち。蹴ったのか足がぶつかったのかボールが少年の1人の顔にぶつかり、蹴り返され顔に命中し、少しもめる。

結局誰か(ほんとに誰か分からない)と会うシーンにはならず、第一幕は閉じ、その次は仕事のシーンで、何か別の作業をしていたときに入電があり、出発点から掛け違えて全然話が通じない。和解起こらず夢終わる。

起き抜けに解釈する。そもそも話って通じないのが基本だよなって。ただ、いまは少しニュアンスが違う。これは後で。


さておき。

物体的肉体。全身だいたい筋肉痛。別に動くのが億劫とかはない(完全な二日酔いの体の方が動かない)。普段いかに筋肉を使っていないかが明らかになる。腹筋の内側に来ているというのは、きちんと捻ってバットを扱っているということで、たぶんむきむきマッチョにはならないから鍛えても良いのかも。もちろん、筋トレに時間をかける世界観はないからあくまで普段の動きの中でだが。今度バッティングセンター行くときは軍手を借りよう。ダーツほどではなくても定期的に行くのはありかも。ホームランの看板に当てたろ。


すぐ筋肉痛になるのは、普段必要なところでしか筋肉を使っていないということであり、特に問題はない。問題なのは精神的精神が没頭した時に体が着いて来られないところにあるのかも。徒歩だったら毎日動いているからある程度無理は利く。

「共通感覚論」で、人が世界をどのように知覚(感覚)するかという話になっている。ベルグソンさんの「力動図式」もメルロポンティの「身体図式」も意識される五官よりも深みから来ているとしていて、僕が言うところの「僕でない誰か」と近しそう。

内臓の具合が機嫌を決めるとかは割と当たり前の領域かと思うが、どこかで腸内細菌のバランスと精神のバランスが相関していると読んだような気もする。やはり意識にはそんなに主導権はなくて、むしろ意識がこれらを言語的に統合できる観測者(あるいは傍観者)でしかないという感じは即しているような。

僕は自分ルールの中に自己人格の基準はないのだが、自分はこういう人格だからこういう風に現実しているという人はとても多い。これは選ばれた現実というより選んだ現実という説。

もう少し細かく潜ると、「クリステヴァ」で書かれているフロイト流の心理学でいうところの、人格の統合過程。こういう意味でいう意識的な人格って歴史のレールを前提としたバリエーションの1部でしかない。人格の原初を辿ると自発的に固有にぽっと発生するものではないという意味。

そこから個人主義の社会に生まれ落ちて、個人として生きている気分に浸りながら生きるのだが、普通に考えると相手を個人と捉えるのであれば、相手の宇宙(人生劇場)も当たり前に尊重できるはず。「性愛と資本主義」で個人的な世界を宇宙と表現して語る下りになっていて、ここでいう個人的な宇宙は、「同一化」か「差異」によってしか他者を感覚できない。小難しいのだが、同じか違うかの二元論でしか他人を自分の世界において把握できないというのはなんとなく分かりみ。相手の世界を相手の世界そのものとして受け入れられない。脳はそんな認識の仕方は嫌うと思われる。

ネガティブと自称する人が居て、たしかに言葉自体はそんなことを綴っているのだが、あんまり否定を感じない不思議。自己否定は自己肯定よりは変革の兆しであって、ほんとはもってできそうって読める。

まぁ、ネガティブは他人を否定しない限りは特に問題ないと思う。他人を否定する方が自分の世界の否定になることを誰も教えてくれないが。この文脈の否定は表層的なストレスは発散できるかもしれないが、ナカに澱が沈殿する。世界(自分)を否定しながら生きるって楽しくはないよな。楽ではあるかもしれないけど。

意識の不自由性は、自己を操作できないところにあるとしてみると、たしかに意識通り自分を動かせることはない。そんなことができたら万人が天才でプロスポーツという領域は要らなくなる。

ただ、量子力学で言うところの、観測者が対象に影響を及ぼすというのは人間の世界にも適用できる。自分をどう観測するかによって自分が変更されるはず。僕は他者に観測されることによって自分を規定するところに重きを置き過ぎてきたし、弱みを言語化することを特に厭わないのに、現実の振る舞いで弱みが見られるのは嫌だっていうのは何かおかしくないかと観測しているから、徐々に変更はされている感じ。

トラウマ払拭して楽しくなる世界線はありうる。
考え過ぎなのではなく、感覚し過ぎ感。


そうして、言葉の話。

言葉が通じないにも色々ある。言語学で読んだところによると、言葉の機能には「伝達」と「表現」があるとのこと。たしかに、「伝達」の言葉であれば通じるように整えないといけないし、ここには伝える対象としての言葉でないものがある。事実でもなんでも良いが、ここには自分の感覚は居ない。いや、どうなのだろう。

事実を伝えるのは共通項を伝える言葉であって、それが伝わらないのは語彙不足だったり、相手の語彙の把握不足だったりする。

僕の言葉が表現かというとさらに微妙なところ。

書く前には、もっと語彙を洗練させねばという結論になりそうだったのだが、伝達して気持ち良いと思う自分は居ないらしいから、もっと言語世界で遊ぶだけなのか。

言葉が通じることより、存在が通じることの方がしっくりくる。

素朴な存在としての僕は、小学生レベルの語彙しか使ってないし。

言葉の扱い方が当人の人格の表現になるのか。
言葉に逃げているのか遊んでいるのか。

よー分からん。

ここまで。

おやすみなさい。

良い夢を。







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