mixiユーザー(id:65958356)

2022年04月27日23:20

52 view

理(ことわり)を断る


世界に祝福されている感じの1日。あるいはこれを書けという啓示か。
今までにない恣意性。ここからこんな人生劇場かぁ、楽し過ぎる。


昨日の深夜は豪雨の音。雨の流れるところが好き。伝うところが好きという人も居て、そういう解釈も良きと想う。夢でも何か動いている。昨日のではないが、線路沿いに引っ越す夢を見た。窓の下ではなく、もう庭のすぐ先が線路。プライベート丸出し感。寝床も何故か屋根しかついてなかった。

朝。豪雨は過ぎて傘を差すか差さないか判断に困る霧雨の中で出勤。こういう姿も良き。水気を吸って垂れ下がる鯉のぼり。そして躑躅。街路沿いではなくて、爆発しているようなのがいくつか見受けられる。都市化計画上のどういった設計思想なのだろう。もしくは私有地で遊べているツツジなのかもしれない。

会社の自販機で水を買ったら当たった。前々回から前回の当たりからさらに短くなっている(体感)。前回当たったのは誕生日の時だったか。前々回が飲み会の次の日。あれ、結局定期的に当たっているのか。これによって出費が節約される訳ではなく、いつもより500ミリリットル飲みなさいってことなのかとしているから、余計に体に水が通るだけ。

ちょうど意識から「当たるかも」というのが抜けたタイミングで当たるのも面白い人生劇場。


昼。雨は完全に止んでいる。今週のシフトの休憩のタイミングだと完全にお昼時で休憩室に人がうじゃうじゃしているから、外に出られて良かった。お弁当を食べる公園が線路を挟んで2か所あり、クスノキ先輩の方ではなく、プチ空中公園に行くことにした。

喫煙スペースで一服しようとすると、人がいつもより少ないしちゃんとスペースに収まっている。なんぞやと想うと、美化なんちゃらの清掃員の人が、注意をしながら掃除していた。僕は喫煙者だが、喫煙者のマナーはとても悪いと思っている。視界内に灰皿があるのになんで吸い殻が落ちているのだとか。スペースに入っていたら、歴史を懐かしむように、昔は電車のホームとか高速バスの中でも吸えたとか言っていた。今じゃ考えられんよなとも。

個人的はいまで良いと思った。空間は切り取られても時間を切り取ることができるのが煙草だし。臭い人には臭いもの。会社の飲み会では吸わないし、吸わないことでイライラすることもない。あくまで嗜好品。おやつと一緒。

一服して、空中庭園のベンチでお弁当を食べる。某所に弁当のおかず画像を貼り付けて食べようとすると、「みゃーみゃー」という鳴き声。基本的に猫に寄って来られないから、無関係の世界である猫を眺めようと探したら、雨に降られて上の部分だけが乾いていない猫さんがしてこちらにみゃーみゃー言いながら近づいてくる。とことこ歩きながら、板張りの通路に一瞬躓く。

食べている最中、ベンチの座る部分に頭をぼこぼこぶつけながら足に擦り寄りベンチの前から後ろからおかずを狙ってくる。大昔のもっと無知だった頃であれば、何かあげようかと思っただろう。でも、今は猫用の食べ物でないものを与えるのがはばかられる。ちょうど大根とみょうがの浅漬けがあって、たしかみょうがって駄目だったのではとか。都度、届かないところに持ち上げつつ、ご飯をおねだりしているだけだったら食べ終わったら他に食べている人にねだりに行くだろうなと。

憩いに来たリーマンのお兄さんが猫好きっぽくて、対価もないのに猫さんーとデレデレしながら呼んでいるし、どちら方面でも需要があるはずで。

食べ終わってお弁当を片し、そろそろ会社のビルの地下の方で一服しようかと立とうとすると、何故かまだみゃーみゃー言って寄って来てくれる不思議。なんぞ、触らせてくれるのかと手を寄せても逃げないものだから、首回りを数秒わしゃわしゃさせて貰った。猫を触ったのは、4年くらい前に尾道の猫の街以来だと思われる。なにやらエネルギーを頂いた休憩時間。その後猫好きそうなリーマンさんは撫でることができたのだろうか。

野良猫がデレてくれる世界線、恣意的に過ぎないか。
基本警戒されて逃げられてきたし、何も対価をあげていない。

いや、縁側(哲学少女が評した)としての僕の存在に寄って来て、この猫さんも暖が取れたのだろうか。何か言いたいことがあったのかもしれないと想うと、「海辺のカフカ」のナカタさんみたいに猫さんと話ができないことが残念。字面も近いからそろそろできるようになるのかもしれないが。笑

なんだかすごく不思議な時空としての1コマ。

仕事でも、お客さん(男性)が、ナカタさん(仮)、いつもありがとうございます、と、いつもはない枕詞を遣う。どうしたことだろう。

ただ、これが仕事としてのやりがいかというとそうでもないらしい。この仕事である限り、そういう非言語は何の効果もない。いや、局所的に縁側になっていることはあるのかもしれないが、あくまで局所。


ということで、存在について感じてみる。
ほんとうに何がしたいのかって言語で自己に問いかけても何も返ってこなくて、解釈するしかない。

僕の存在を認知できるということは、何かのエネルギーが循環されているということであって、自然科学以上に自然なことなのだろう。ここでいう存在の認知は五感での感得ではなくて、もっと曖昧な「感じ」の領域。これは現代ではオーラとかハイヤーセルフとか思考の現実化とかみたいにはなっているが、あくまでどれも主観的な世界観なのだよな。

個人的にはもっと流れたり雫が伝えたりするところで生きたい感じ。
この領域において主観的な存在は問題にならなくて、ただ、お裾分けしていくという感じ。

漂流文は、文の評価を僕の存在に還元しなくても良いということ。
別に明示的にスキとかされなくても良い。

どうでも良いが、毎日毎日一定量の文を漂流している人ってほとんどいなさそう。時間がないとか暇がないとかの話なのかもしれないが、僕も別に時間が在るから書いている訳でもないのだよな。ただそういう余白があるというだけ。楽しんでいるから、読む人も楽しく読むだけで良い。


法律学談義。

憲法で、表現の自由が何故国家から保障されるのかという機能として、思想の自由市場という考え方がある。表現が多様に世界に出ることによって、真理が選ばれるという世界観。

個人的にはフィクションに過ぎると思うが、これが社会科学という学問レベルで提唱されているという不可思議な現実。世界における思想の発展って、少なくともたくさんの人が日常で考えた思想の集積ではない。考え抜いた哲学者が世界を動かしてきている。もちろん検閲はアウトだが、表現物が流通することと、情報が良いようにフィルターがかかっていくとうのは混同してはいけない。
個人的には、思想的な表現は市場価値があると類推するべきではなく、空気みたいに吸い込むものではという感じ。空気では満腹にならないけど味が在る。

僕が法律家になれなかった(なりたくなかった)のはこういうところだろうな。

この後どうするかというと、楽しむだけ?

もっと広く循環できる場を試行する感じ。

はい、おやすみなさい。

良い○○を。











0 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する