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2022年04月02日15:34

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どの口が言う〜「暴力反対」が語られる文脈の違い〜

 次の記事は、例のアカデミー賞授賞式での平手打ちの一件について語られた非常に優れた分析だと思います。
https://toyokeizai.net/articles/-/578496
 要するに、ウィル・スミスがアカデミー賞授賞式という晴れの場に招かれるほどのセレブにあるまじき行動をとった(そして、それはクリス・ロックの発言よりもはるかに罪が重い)という点は、米国では圧倒的多数の人々が認めているということです。
 多分、日本人の間で議論すれば、クリス・ロックの方に軍配を挙げるとしても、その理由は、どんな事情があったにしても、とにかく暴力はいけないという、いわば絶対的暴力反対論になるのではないかと思います。でも、米国ではそういう論法は採らないようです。
 もちろん、米国人にも暴力はいけないものだという認識自体はあるのだと思います。ただ、そこから、(日本人のように)ストレートに絶対的暴力反対論には走っていません。「黒人は怖い」「怒りっぽい黒人」という偏見を崩そうとして、長い年月をかけて多くの人々が積み重ねてきた努力を無にしてしまった等の論理を介在させているのです(あくまで、この記事の筆者の分析によればの話ではありますが、多くの米国人も採っている論理ではないかと思われます)。
 非常に巧妙な論理ではありますが、私はここに米国の狡猾さというか、一種のずる賢さを見る思いがします。と同時に、絶対的暴力反対論に立つ日本人は素直ではあるが、あまりにも無邪気(お花畑)というか、自己矛盾に気付いていない(あるいは気付きながらことさらにこれを無視している)気もしてしまうのです。
 どういうことかというと、こういうことです。
 暴力の中でも最も重いものが殺人であることは、おそらく多くの人が認めるであろうと思われます。もっとも、殺人も、死刑という形で合法化することは可能です。でも、たとえ合法的にではあっても、究極の暴力が実現されることは望ましいことではありません。そこで、先進国のほとんどでは、死刑制度は廃止されています。これまで何回も申し上げてきたとおり、今や、死刑制度を存置しているのは、先進国では米国の一部の州(アカデミー賞授賞式の行われた会場のあるカリフォルニア州も含まれます)と日本だけです。
 殺人という暴力を合法化しておきながら、一方(日本)のように無邪気に絶対的暴力反対論を唱えるのは、あまりにもノーテンキではないでしょうか? かといって、他方(米国)のように『「黒人は怖い」「怒りっぽい黒人」という偏見を崩そうとして、長い年月をかけて多くの人々が積み重ねてきた努力を無にしてしまった等の論理を介在させ』るのは、あまりにも狡猾ではないでしょうか?
 死刑制度を廃止した国々の国民から見れば、今回のアカデミー賞授賞式での平手打ちの一件でよく見られた日本人の絶対的暴力反対論、クリス・ロックに軍配を挙げた米国民の考え方は、「どの口が言う」と思えたかもしれません(あ〜だの、こ〜だの議論する前に死刑制度を止めれば?)。
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