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2022年03月05日00:28

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ひっぺがし











そうだ、ハナミズキだった。







季節を経て、久しぶりに外で弁当を食べた。会社の休憩室は時間が止まっていて息が詰まる。弁当画像は毎日撮っている(自分のコレクションの為ではない)。本日は余計なものも写っているが、まぁ良いか。




ちなみにレシピ。メインは削ぎ切りした鶏むね肉に小麦粉をふりかけて炒め、青梗菜と人参を加えて塩コショウ、ケチャップと優しいお酢(商品名)で味付けした酢鶏風。副菜は茹でたブロッコリーとトースターで焼いた油揚げを、鰹節とめんつゆで和えた。自分ではめんつゆを買わないのだが、母親の貰い物を自分も使わないからと押し付けられた。残りは見たままの目玉焼き半分。




めいいっぱい息をしつつ食したあと、あぁ、ここ宵顔さんが好きな花があって名札がかかっているのだったな、なんだったっけ、と一服しながらぐるぐるし、名札を見る直前に想い出した(冒頭)。




さておき。




週明け月曜日は健康診断なのに、普通の酒量。さすがに明日は抑えて明後日はノンアル。

問診票で聞かれていないところではかなり節制的生活のはずなのだが、正直に書いたら不健康だから改めましょうと言われるに違いない。でもこれ、逆に言えば問診票で自己申告されることでしか判明しない領域だと考えると、検査で判る食習慣と運動習慣の方が大事なのでは。ここは完全に不健康のシール貼れないし、人には動かない自由もある。




グーグル先生の機能でスマホを携帯して1ヶ月に歩いた距離が分かるのを今日初めて見た。たぶんGPSの位置情報の動きから速度を換算して、徒歩、走行、自転車と振り分けられると推測。徒歩しかしてないのに走行に振り分けられている距離があって本気で歩いたらそう観測されるのかと。1月が70数キロで2月が60数キロだった。通勤が片道徒歩15分くらいだし、こんなものなのかな。平均値は知らないし、別に健康の為に生きている訳でもない。







やれやれ。




哲学少女に「振り切っている」と評された。




どうなのだろう。個人的にはやっと序の口という感じで、突拍子もない思想とか思索でもないような。あくまでありうる考え方の1つという意味合いでしか書いてないし。もちろん嘘ではないが、僕は言語化できるような規則の下で生きていないし、他の人も実はそうなのではないかと思っているだけ。(こういうところか?)




うーん、なんだろうな。




言葉では人となりに届かないが、言葉は人となりを象徴しているくらいな感じ。




言葉として固着された傾向が在ったとして、その人がその傾向を完全に四六時中保続していることはないし、自分嫌いと自称する人が他人より自分を好いているし、ほんとに言葉を文字通りに捉えたら、世界がしっちゃかめっちゃかにならないか。




別にこういう考え方も言葉として在る訳ではなく、そんな感じで世界を捉えているというのを言葉で表すならこれに成るだけであって、ここに固執している訳でもない。




相手の言葉を全く汲み取らない雑談が仕事中に繰り広げられる。

いっぱい話して、それぞれ相手に同情して、仲良さげに見えそうで、自分に通じない言葉はお互いシャットアウトしている。こんな会話したくねぇという実例が提示される人生劇場。




でもこれって、たぶん、世界がそうで在るとなってしまった人生劇場だからだろうなという感じ。認識とか規定値が世界を決める。そりゃそうだ、他人の言葉の意味を解釈したり定義が気になったりするような他人はほとんど居ない。あくまで言葉は文字通りという立場で自分の語用の中に生きて、他人のことも自分の語彙で読む。




あんまりやれたことないのだが、ほんとの対話って、言葉の既定をお互いが吟味できることなのでは。言葉が世界の共通項化とすれば、世界自体の吟味になる。




ちなみに、言葉を自分が共通項になるものとは扱っていないのであしからず。




僕の解放感は、ある意味、言葉の呪縛からのものであると言える。

僕がかつて生きていた世界の層だと、言葉によって他人から自分の人格が決められる。お前はこうだって言われたら言霊に縛られて、自分の現実がその既定を越えられない。




コレを辞めて良いのかと気付いてしまったのが一年前くらい。




自分を言葉で決めなくて良いとなると、ほとんど無尽蔵。まだ試せる余地がいっぱいある。ここまで行けたら狂人(あるいは聖人(星人))という施行が楽しい。記憶ではない領域で四六時中自分が生きている世界を意識する。どうも途中で途切れて、その後に繋げる。




もちろんこうなってくると世界も決めないし、他人も決めない。




どういうメカニズムかは知らないが、僕を決めつけるような人が世界に居なくなった。

職場でもそういう風に人を捉える人はいないし、母親も遠慮気味になっているし。




ほんとに嫌ならその世界に付き合わなくて良いのだな。

ただ、その世界の指標の中でのイヤイヤ期ならどこまで逃げてもそういう世界になる。










とイヤイヤ期のまま人生を過ごす人が多いのではという想像。

自分の怒りをいい大人がコントロールできないって、普通におかしくないか。どれだけの収入があろうが弱者だろうが、変わりはない。







ノルウェイの森の読み返しももうそろそろ終わる。




異同が面白い。僕は直子より緑推しなのだが、どちらも自分の存在に他人を巻き込むから、ワタナベのことは好きであっても、愛してはいない。




愛と愛撫はたぶん似たところがあって、なんとなく同一とされている感はあるが、自分の世界に居るという前提条件ありきで存在愛するという意味での愛撫だと、いつまでたっても相手に届かない。




僕の中での愛は、




人ってそんなにやわな存在とは想わないけど。







とりあえずおしまい。




おやすみなさい。




良い夢を。






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