卒業式なのか同窓会なのか、昔の色んな人とお別れをする夢。みんな集まっている所をすっぽかす。式典嫌いか。
何故か起きた時にメンタルが地面寄りだという自覚症状。2ミリくらい地面から浮かんで過ごして居たから凹みかと錯覚。実際は地に足が着いた感じだった。よく働いたし、無駄に現実的な発想が起こる。ここで想ったのは、自覚される精神状態と、現実の稼働にはズレがあるということ。幸せだったり楽しいだったりが、活動に繋がるとは限らない。今回は繋がっているみたいだが。
ところで、昨日書いた読解力。僕の文章ってどのように読解されているのだろう。どう読解されたいという想いが無いから全然予測が立たない。いいことを書いていないのは自覚しているからともかくとしても、よく読めるなと想う。論理も飛躍しているだろうし、素朴に納得とか共感がある訳でもないだろうし。まぁ考え事が好きな人には自分の中ではどうなのかというのが起こるのかもしれない。
そうして、読解された僕の人物像ってどうなのだろうなとか。少なくとも知性は無い、はず。知を愛しているが、持てるものではないし。本ばかり読んで徒然と意味もないことを書き連ねていて、世界に怨嗟が無く頭ハッピーで生きてそうな人と予想されるが、どうだろう。
あぁ、文章界において自分はこういう人だとするのが自己開示でアイデンティティの証明みたいになっている模様。僕はあんまりそういう言葉を信じていなかったりする。あくまで暫定的情報であって更新されてゆくもの。
言葉に対してはこういった微妙な距離感がある。哲学本の「ことばの意味」で、幼児の発達段階での言葉の習得は=世界を形成するということで、言葉はそれくらいの力を持っているのは分かる。言葉が決まることがすなわち世界が決まる。言葉によって自己が定義付けられてしまう感。ただ、僕は自分の発達段階を顧みたとき、言葉はあくまで外のものとしていたような気がする。
人は言葉で考えるというのが一般的だが、僕が言葉で考えるのは外のことばかりだったような。だから、自分の人物像をこういうものだと言語できないし、基本的に人と喋るのが苦手。
お祈りは言葉の既定力を良いとこ取り。
そういえば、お付き合いの話。
男女関係のトラブル、とらぶる、むしろ男男関係、むう。
文化人類学で、一定の社会の場における互酬ないし贈与の話があった。贈与とかツケは、関係を時間上において引き延ばす作用があり、社会が回るということ。クレカの原型みたいな関係。
これで見ると、お付き合いもそういうことで、引き延しにある。
僕がここに合わなかったのは最初からで、中学校の頃に告白されたのは公開的だったから恥ずかしくなって断ってしまった。筆箱にお手紙を入れていただいたのだが、僕本人が読む前にクラスのヒエラルキー高位者に先に読まれて冷やかされる。「一緒に生活していくうちに」ってお前ら何やっているんだよーみたいな。単に席が隣で雑談していただけ。
中学のヒエラルキーはほんと嫌だった。この話は置いておいて。
高校時代2人と非接触でお付き合いしたが、その頃の僕は自分の位置が分からず、告白されて断るのは申し訳ねぇという感じで承諾する。僕なりに頑張ったが、理想に合わず1ヶ月でフラれる。今となっては僕でなくても良い人にお付き合いするのはもったいないから問題ない。
大学は生生しくなるので省略。トラブルと言えば、大学で同じく地方から大阪に来た友人のことを高校時代から好きな女の子の先輩がこの友人のことを好きになり、僕を当て馬にして友人と恋人になったというエピソードか。いや、別に僕は当て馬の役割を果たせず、この人とは何もなかった、非接触。可愛らしい人だったが。
誰かの浮気相手としての人形みたいになったこともある。
この話、どこに向かうのだろう。
なんだかんだトラブルにまみれていて、そこから離脱したという感じなのか。
SNS界でも、僕に直接トラブルがあったわけではないが、周りの人達で争っていたという話を後から聞いたような。
業が深い。
ちょっと話の道を逸らして。
文学フリマで買った本がまた1冊終わった。よくできた話だと思う。ちゃんと美味しかった。でも、あんまりその人の人格が漏れてこない。ファンにはなれないなとは思う。
人ってなんなのだろうな。
海底二万里とか、ノルウェイの森とか、すべてがFになるには人を感じる。
やっぱり戻ってきて。
僕を善い人だとする人ってどうも駄目だ。
現実的な振る舞いでは位置がよく分かっていないのと、合わせるところがあるから、勘違いで「優しい」とか評される。結果的にそうであったとしても、僕はそういう風に見られることを目的として生きていないから、いや、だったらもっときちんと優しくて奉仕してくれる人を探せば良いという無意識が起こり、投げやりになってしまう。
インターネット世界はこの辺り自由で、勝手に人が良い夢を見ていますようにと祈ることができる。関係があるからその人を見る・想うみたいな義務で生きていない。
文章の味でいうと、自分が足りてないとか、良いことばかり書くのは外面っぽくて美味しくない。人は浮き沈みの波があるし、おそらく変な発想も起こっているし、善き傾向のところの上澄みだけ攫った文章は深みがないような。知らんけど。
ここでいう「善い」は道徳的な仮面の意。
ちなみに、好きな人である宵顔さんもちっとも(言い過ぎ)善い人ではない。近い人以外は他者だとしているし、なんならパートナーは都合良さに重きがあるまである。なので、理想的な人物として想っている訳でない。僕を使おうとすればいくらでも使えるのに使わない(使い道がないという説もある)ところとか、たまたま会った発言の言い回しとかなんか変なところが離れがたいだけで、いつ終わるとも知れない。
僕を善い人だと評したことがないのも良い。
都合の良さで言ったら、お金持ちぽい僕を好いてくれた男性とくっつくのがもっとも良かったはずだが、僕の体はお金では売れないわとなった。
なんだろう、この人生。
なんとなく読んでいる人の僕の人物像を壊してみる試み。
ここまで。
では、おやすみなさい。
みんな自分でありますように。
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