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2021年10月29日05:04

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第二次世界大戦のミステリー、ロシア、ツァールスコエ・セロー「琥珀の間」の膨大な琥珀はどこへ消えた?

 訪れたことはないが、生涯1度は訪れたい、しかしプーチン体制の専制ロシアには行きたくないので、いつのことになるやら皆目見当がつかないのが、ロシアの旧首都サンクト・ペチェルブールクである。

◎帝政ロシアの夏の離宮の「琥珀の間」
 この郊外に、「ツァールコエ・セロー(Царское Село)」というロマノフ朝後期の皇帝の夏の離宮・別荘がある。ロシア語の「ツァールスコエ(Царское)」は「ツァーリ(皇帝)の」という形容詞で、「セロー(Село)」は「村」という意味だ(写真)。
 ロシア2月革命で、臨時政府の前に皇帝を退位したニコライ二世一家は、この一角の宮殿に軟禁された(後にエカチェリンブールクに移送され、そこで皇帝ばかりか家族と従者は皆殺しされた)。
 それはさておき、ここの宮殿の「琥珀の間」はぜひ観てみたい。
 ただナチ・ドイツとの戦争前は、室内全体が琥珀で飾られ、きらびやか一色だったという。

◎総計6トンもの琥珀を飾り立てた
 琥珀は、バルト海特産の宝石で、古代の樹液が化石化したものだ。
 18世紀の初め、プロイセン王フリードリヒ一世がバルト海特産の琥珀を集めて作ったものを、後継者のフリードリヒ・ヴィルヘルム一世がロシアのピョートル大帝に贈ったものである。
 大帝はこれを死蔵していたが、その娘エリザヴェータ二世は、ツァールスコエ・セローの宮殿の一室に飾りつけた。その数量は並みではない。使われた琥珀は8万個、重量は6トンにも達したという。今のお金の価値では、どれほどになるものなのか見当もつかない。
 後に受け継いだ専制君主・女帝エカチェリーナ二世は、この部屋を特に愛し、女帝の特別の許可が無い限り、この部屋には誰も入れなかったと言われる。

◎ナチ・ドイツに略奪されて行方不明に
 ところが、現代の我々がここを訪れても、往事の琥珀の間を観ることはできない。
 スターリンのソ連の油断をついたナチ・ドイツがロシアに攻め込み、ツァールスコエ・セローの宮殿も占領された。宮殿の美術品は、ドイツ軍に徹底的に略奪され、琥珀もすべて剥ぎ取られた。
 その後、巻き返したソ連赤軍がドイツ国内に攻め込み、琥珀の間から剥ぎ取られた琥珀を探したが、杳としてその行方は知れなかった。
 一時は東プロイセンのケーニヒスブルクの古城にある博物館に運ばれて展示されていたと言われるが、今なお発見されていない。イギリス軍の爆撃で焼失したとも、また船に乗せてドイツ本土に疎開の途上、ソ連潜水艦に撃沈されて海底に沈んだ、とも言われ、いやまだドイツのどこかに隠匿されているかもしれないともされる。
 北京に入った日本軍が協和医学院で探しながら行方不明になった北京原人化石と並んで、この行方については第二次世界大戦の2大ミステリーとされている。

◎原品の再発見待たずに24年もかけて復元
 戦後、旧ソ連政府はドイツに破壊された宮殿の再建計画に伴い、この琥珀の間を、原品の再発見を待たずに復元することを決めたが、元の琥珀の間の詳しい資料がなく、作業は困難を極めた。
 その完成までには実に24年も要し、2006年7月のサンクト・ペチェルブールク・サミットに際して、復元された琥珀の間が各国首脳にお披露目された。
 復元された琥珀の間は、その後、一般にも公開されている(写真)。
 エリザヴェータ二世が情熱を注いで飾り立てたかつての琥珀の間を、そこでうかがえるかは分からないが、その後のミステリーと共にせめて残光に浸ってみたい。

注 容量制限をオーバーしているため、読者の皆様方にまことに申し訳ありませんが、本日記に写真を掲載できません。
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昨年の今日の日記:「トランプ政権、台湾へ9回目の武器売却、急ピッチの台湾防衛力の整備とスターリニスト中国の焦り」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202010290000/

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