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2021年10月11日00:02

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こころ



髪を切りに行った。道中、草がぼうぼうと生えている空き地のススキに見惚れる。白も現実世界では無色ではない。ついでによく見かける黄色い細かく咲いた花。セイタカアワダチソウというらしい。形も名前も知っていたが1つになった。

エネルギッシュな店員さんは親友の結婚式で珍妙な役割を頼まれたらしい。体を作って何日か前から断食するという役作りに対する熱量。うまくきますように。まぁ結婚式って何があっても良い話になる稀有な場だからなるようになるだろうな。

この店員さんはゲーマーだから、某作曲家の現実劇場からの退場ニュースで泣いたらしい。僕もドラクエの音楽は好きなのだが泣けない。薄情者なのか思ったのだが、僕はアーティストに対しては別の感情の方が強いだけだとした。その芸術に時代が合うのは奇跡であって、心を動かしてくれてありがたやという感謝の心持ち。アーティスト個人への悲しさは直に会ったことがあるとか生活圏ならともかく、自分の中で何か違う。個人的には悲しさで泣くってネガティブな感情ではないと捉えていて、泣けるのは良きだが、作品が更新されないことに対する悲しさは、どちらかというと内向きな感じ。


帰り道、年配手前のご夫婦が手を繋いで歩いていてほっこり。人のハッピーは良いものだ。見上げた空にはここのところ夜にはご縁がないお月様が、今にも青空に溶けてしまいそうな儚げな細さで浮かんでいた。午後4時のお月様も美人。


さておき。

人ではない存在を擬人化できる条件は、「一定の目的、あるいは機能をもったもの」なのではという仮説。水まくらは僕も若干擬人化しつつある。定期的に石鹸で洗ってあげる。ヲタクのクラスタの電車とか、漫画「銀の匙」のホルスタイン部とか、機能美を擬人化している感じだし、馬と心を通わせることは人以外の動物でも素朴に人と同じ水準で心があるとしているという意味で擬人化と言える。この擬人化できる機能って、人の本質論としてとても重要な感じがある。

人とは何ぞやという分野で超絶ヒットのシンクロニシティの本と出逢った。「思考のすごい力 心はいかにして細胞をコントロールするか」。昨日「クララとお日様」の下りで、DNAと人は一致しないという見解を書いたが、これを生物学者が学問的に説明してくれるみたい。

本来この本は啓発本のところに居るべきではない。時々こういう科学の最新知見の本が学問領域でないところに現れる。個人的にスピリチュアル棚に置かれていた「こころはなぜ腰痛を選ぶのか」と近い。共通項は、西洋医学・西洋思想という既得権の層が認めないから、化学棚に置かれないことによる。出版はさせてあげるが、科学のお墨付きは与えない、みたいな。

「こころはなぜ腰痛を選ぶのか」は東洋医学を下敷きにした、全体として人を捉えるみたいなところにある。腰痛はその炎症を対処療法しても治らない。憤怒を自分で見るに耐えないから、痛みに逃避しているみたいな話。この「思考のすごい力」も、現代生物学のダーウィンの進化論に反旗を翻していて、生物のシステムは全体として捉えないと見えてこないとしている(要約)。この全体性って原始仏教の世界観とも一致しているという面白み。

そもそも心ってなんだろう。こんな子供でもすぐ思い付くような問いに対する回答を最新科学ですら持ち合わせてない。世界は不思議過ぎないか。

「クララとお日様」でも、父親がクララに対して、君はジョジ―の反応を複製できたとしても心まで学習できるのかいというという問いがあった。クララは、人の心は部屋のようなもので、全部の部屋を回って行けば学習には限りがあるから大丈夫ですって答える。とてもAI的回答だが、一般的な心観もこれに近そう。カズオさんの文体はとてものどかなのだが、中はすごく怖い。ジョジ―が不治の病になったのは、母親がジョジーに「向上処置」なるものをした副反応っぽくて、これってたぶんDNA的な何かよなって。

「思考のすごい力」の回答として、おそらく心もカロリーとかと同系列のなんらかの「エネルギー」という定義なのではという予想。これは僕の心観ともやや一致している。

あぁ、DNAの話。電子顕微鏡の視点でみれば人間は50兆の細胞が集まった共同体であるというところから、最小単位である細胞の話になった。細胞をコントロールしているのが何かが分かれば、共同体である人間をコントロールしているものも分かる。そうして、DNAは細胞の脳ではなく、設計図だっけでしかないとか。ほんとうに細胞をコントールしているのは細胞膜で、環境をトリガーとして、反応するかどうかを決めている因子があるらしい。

免疫反応のメカニズムも面白い。(僕が個人的に打ってないのは、この素朴な免疫反応を狂わせるという研究結果があるらしいということなのだが、これは別の話)

おそらく、この環境というトリガーの中には思考も含まれるということになりそうな感じ。
量子物理学で言えば、物質はエネルギーでしかにないから、何をエネルギーとするかは思考の解釈による。甘い物を食べるのはご褒美だとするのも、血糖値が高まることによるブーストとは別に、そういうものだと心が決めていることによる。

はい、ここまでが採り入れたほやほやのもの。ここからが考察。

思考の現実化もこの文脈なら分かる。思考というエネルギーで自分の現実を誘導するということなのだろうな。で、自分素朴がしたいことをしているときにエネルギーが最も高まるから人はそれに寄る。

僕がそもそも好きだったことってなんだったかなって省みた。
人のことも好きだったし、本もそこそこ読んでいたし、なんなら絵を描くのも好きだった。でも、何をするのが一番好きだったかと言うと、ただ、世界をぼーっと眺めることだったかもしれない。蟻の巣を観察するとか家族の不和も観測対象だったとすればまぁまぁやばいが。

小学校の運動会で将来の夢を表現するという無茶振りがあって、僕は宇宙飛行士にして腕を広げて走り回っていたな。

好きなことが決まらないのであれば社会の一般的見解に従って生きれば良かったのに、僕はまだここに居る。誰かに承認されることでは満足できないことなのだろうが、最終的に何になるのだろうな。という構想のなさが外から見たら危ういのかもしれない。彼女居ないのか、嫁をと言われるのも、そういう文脈なのか。はて。
たしかに、退場しそうな時期はあったのは確かだが。

今や、1つに決めなくて良いというか、好きというエネルギー源があるからやっているという人参と馬みたいな行動規範で動いていない。

僕が人に対して鋭くない、なんて読者さんには通用しないが、人に対する洞察ってあくまで自分にとってどうかという枠。僕はそういう枠で人を捉えてないんだよな。だから現実世界ではぼーっとした人物と捉えられて、もないか。

承認されなくても生きていけるもんな。
これは、ほんとは承認されたいのにされないから逃避しているという節も考えていたのだが、そうでもなさそう。これを読んだ人がハッピーになったらそれで良いくらい。

表現を手段にするか目的にするかの話。僕が好きだった踊り手さんは目的にしているような感じだったのだが、自分を見つけてもらう手段にしていたのかなぁという感じになった。宵顔さんはどうなのだろう。

なんだ、やれやれ、僕はもっとできそうなことをしまくった方が良いな。
画も描きたい。タブレット端末の導入かー。

するのだろうなとなったことをするというのが心のエネルギー。

人の精神性って現実的にも何かのエネルギー的場をもたらすのだろうな。

はい、おしまい。

おやすみなさい。

良いハッピーを。

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