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2021年08月19日14:15

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祖母たちの語った戦争

祖母は瀬戸内の島で育ったが、そこは呉が近かったので、大戦末期によく米軍機が襲来した。

祖母が語ったところによれば、米軍機は執拗で、民間人だろうが、狙い撃ちにしていた。

米軍機の爆撃のあとは、周囲に紙などの燃えかすが舞い、硝煙の匂いがたちこめたそうだ。

そんな毎日が続いた日、いつものように彼女が畑を耕していたころ、広島方面がグワっと光ったかと思うと、キノコ雲が立ったそうだ。

それまで海軍に所属していた祖父の勲章を供出でさしだすなど、軍に協力し、

「日本は絶対まけん」

と信じていた彼女であったが、キノコ雲を見た瞬間に、現実を見せつけられたようで、畑のある小高い丘で呆然とするしかなったという。

それからしばらくして終戦となったが、まだ悲劇はそこらへんにあった。

今度は生き残る戦いがまっていた。

戦後生き残りの人の話によると、金属がいい値で売れたそうで、これを目当てに、多くの子供が回収に奔走した。

特に米軍の不発弾やら日本軍が遺棄した爆弾は、良い値がついた。

そこらへんに爆弾が落ちていた時代だ。

ある日、1人の子供が米軍の不発弾を、遊んでいる最中に浜でみつけ、いつものとおり、それを取り出そうとした。

「これを売ればまた親にほめらるけえ!」

そう言って、それを掘り起こそうとした。

ドカン!

という音と共に、砂が舞い上がる。

仲間達が集まったが、その子供は瀕死だった。

生きているだけで奇跡のような状態だったが、その子供の顔は煤だらけになっていて、肩からもがれた両腕のあとに、白い骨と黄色い脂肪が見えていたと、それを見た人が自分に語った。

米軍の爆弾は、当時そこらへんにおちていて、不発弾がけっこうあった。

不発弾ならともかく、米軍はその爆弾に時限信管をしかけることもあって、わざと爆発を遅らせる処置を爆弾に施し、民間人の死傷者を狙う工夫もしている。

以上の話に結論はないが、祖母や知人の語った戦争の話を思いつくまま書いてみた。

※写真は祖母の実家近くで大破着底した大淀。大淀の乗組員は半死半生で対岸の小学校に運ばれ、祖母はその看護救援に赴いた。



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