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2021年06月10日23:00

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並行宇宙




夢では虎とライオンが闘って虎が勝った。おそらく昨日ライオンがライオンとして認識されるためのゲシュタルトについて考えていたから。細かく書くと血なまぐさいので、猫とか犬とかが出てきて欲しい。個人的に大型肉食獣で一番恐ろしいと思うのは熊である。ほんとかどうかは分からないが、鮮度を保つために命は残して身動きを取れないようにして埋めるとか、なかなかエグイ。


仕事ではポジティブな発見があったのだが、その前に。


二度寝しようとぼーっとしていた5時台後半から6時台。6時ぴったりに隣人がベランダで洗濯機を回しだす。うるさい、眠れないというイライラは特にないし、一応6時までは待っていた気配がある。ここで、ベランダ設置の洗濯機は何時から何時までに回すのが正しいのかという問題について考えた。

素朴な僕は早くても8時くらい、何なら9時以降で、遅くても9時ぐらいとしている。これは常識的感覚というより、なんとなく自分が認識している常識っぽいものの限度かなということ。悩まずに回せる最大公約数と言っても良い。

で、境界領域はどうなのかというと、頻度にもよるし、場所とか環境にもよるから、思考で正誤を判断できるものではない。結局は感覚としてどうなのかが問題なのに、思考をしているという気になる。と、ふと思ったのが人が「考える」という言葉を遣うとき、もう感覚的には決まっている、もしくは決まらないことに対して言語を無限に投入していくことが含まれているのかもということ。

たしかにこの文脈だと、考え過ぎは損というか、考えるだけ無駄。言語では自分は納得させられない。むしろこの文脈での思考は悩みと同じか。

例えば、この洗濯的思考で言語化することは、自分の素朴が気になっても他の素朴を持っている人も居るというだけであり、それ以上はする必要がない。場所とか環境を考えていくと想像力の鍛錬にはなるだろうが、答えは過去が「気になる」と決めている。

僕の考えるは、溜めるものではなく拡げるものだから、悩みという澱にはならないし、考えるという言葉の意味はもっと広い。自分の素朴が正解であるために考える訳ではないし。

人間の素朴な世界観は現象学的なものが一番近いのではと思っている。人は現象としてしか存在と関係できないという見解のだが、この関係性の中には「考える」も含まれている。この文脈だと考えるとは対象がなんであるかを知性で認識する行為であって、溜まっていくような方向にはない。

さておき。

昼休みはkindle読み放題で次の本を採取したのだが、あんまり読み通したいとなるまでの良い出会いがなく、いくつかつまみ食いをした。1つは啓発本で、ビジネスに使える内省の技術というもの。

内省をすることで、自己認識が高まって自分の目的が分かりやすくなるという思想は良いと思ったが、これって内省というより自己表現ではと感じてしまった。たしかに大学までのおべんきょって自己表現の仕方を教えてくれなくて、社会に入ってから急に自己表現しろとなって、なんじゃそらってなる。プレゼンとか会話とか文章とかは、その人そのものがどうかというより、技術の話でしかない。人を感動させるとかになるには人そのものが問題になってくるとは思うが、個人的には対話術というのは義務教育に入れても良いと思う。まぁ技術として自覚されていないのも分かる。

外に対しては定型文で良いし、内は技術を気にしなくても聞いてくれる相手が居るから磨くようなものではないというモノサシ。

この本では、メタ認知を意見、経験、感情、価値観に分けて考えることが推奨されていた。分かるのだが、これは社会としての語彙なんだろうなと思う。自分の意見が客観的に正しいと思いがちな人は、それが経験と環境に結び付いているということを認識した方が生きやすくはなるだろうなと思うが、この切り離しはあくまで、社会的に自己表現するときであって、素朴なその人ではないという説。感情はほんとは名前が付けられるものではないし、名前がないものなのだということをメタ認知した方が良い。まぁ一回名前を付けてみるということも大事かもしれん。

あと、価値観とは自分が何に重きを置いているかという経験の収束ということだが、これもほんまかと思う。僕は森が好きだし、海の画像が付いてた日記を見て海にも生きたいという情動が起こったが、別に自然愛護のモノサシには結びつかないし。自然は無常だから無常感を大事にしているということになるのかもしれないが、これをビジネスで表現してどうなるのだという感じもある。

結局のところ、僕の中では、内省は言語で行うものではなく、言語にならない自分の機微を観測することではないかと思う次第。言語で内省しましたって、なんというか証拠を求められているみたいで嫌だ。

言葉は言霊であるということとは別に、機能としての側面もあるのだろうなというのが今日の仕事での発見。

研修があったのだが、その前の案件ですげぇもやもやしていた。全然会話がかみ合わなくて、相手に自分の言葉が伝わっている風でもなく、すげー申し訳ないなというもやもや。

研修内容は、自分が対応に困った記録を提出して、どう対応すれば良かったのかということを講師と話し合いましょうということで、僕はシステム上どうしようもないことに苦言を呈されたとき、どう対応したら良いかという意味で困った案件を提出した。全然発話できてなかったという印象もあったし。

で、講師と一緒振り返りながら仕事上の悩みはありますか、ないです。どうしたいですか、相手をスッキリさせたいですという自分の内部を掘り返しされつつ、カウンセラーの手法でやっていったら良いんじゃないという風に示唆された。確かに僕は相手の話を聞きたい人だから、ナチュラルではオープンクエスチョンでやるのだが、仕事では教えなきゃという思想が先に立って、一方的に言葉を投げてしまうことがある。こういうことをすると上手くいかずもやもやする。

なんというか、もっとナチュラルでやって良いのだろうということと、言葉にはこういう使い方もあるのだろうなということが発見された。一瞬で関係性を構築できるということ。人は話しても良いのだと思った人の話しか聞かない傾向にあるというのは講師の言だが、一般的には本能なのだろうなと。

僕はこういう手法は相手をコントロールしているみたいであんまりやりたくないなという忌避感があった。使いようによっては洗脳しているみたいだし。ただ、人は、流されつつ流す存在であると定義すれば、お互いスッキリさせる方が良いに決まっていると思ってしまった。

これを他人と内輪で分ける必然性は全くない。

ということで、研修が終わった後に、試してみたら相手が滅茶苦茶馴染んでくれて、僕も嬉しくなった。

人が嬉しくなるのは結果だけではないらしい。価値観の破壊。
次の段階はこれができるようになることだ。

定義という言葉は、客観的な正しさみたいな意味合いがありそうだが、そんなことはなく、ただ、その宇宙の中で、これはこういうことと決めようかということ。この日記世界で言えば、僕はこう決めるという意味合いしかなく、他人もこうあるべきだという方向は一切ない。

だから、他人の定義が気になる。それは外からの価値観が全くなく決めた意味なんですかって。実際は完全な自己定義なんてありえないのだが、問題はその定義が自責なのか他責なのか。

(どうでも良いが、今からカウンセラーってなれるんかな。調べてみよう)


そうこうして。

言語学が学問としてなりたつということが実感されてくる。言葉って結局なんだろうということは、考えれば考える程分からない。

自分を外に表明することだというのも正しいし、内省としての言葉も正しいし、ある言葉を投げられて正負で反応してしまうことも正しいし、言葉だけの世界で臨場感を持ってしまうのも正しい。

今、思想枠で原始仏教の本を読んでいるのだが、こういう大昔の思想が言葉として残っている時点で、言葉は時空を越えるものだし、言葉としての思想は、最初に言語ができた辺りでカタログとしては出尽くしているのではと思う。万物は○○で構築されているという思想で全く科学的な知識がなかった時代で争っていた時代とあんまり変わらない時間軸。オリンピックって、もともと戦時の世界で休戦するための血が流れない戦争みたいな起こりだと知ると、人類として何も進歩していないと思うのだが、何がこれを留めているのだろう。

で、言葉の原初に戻ると、言葉はもともと固有名詞に対する指示語として生まれたという説は分かる。これとかあれとかは音で疎通できるレベルだが、あの山とかこの山とかは山の認識が増えてくるとややこしいから、あれがウガ山、ここがゴゴ山とかとかに共通定義する。

でも、言葉を指示語でなく扱えるようになった昨今だと、言葉は言葉世界を新たに構築する、一種の創作になっている。創作ということは、もう1つの世界というか宇宙なんよね。パラレルワールドの世界。Twitterとかまさにあらゆる宇宙が混沌としている。

僕の日記も1つの宇宙を創っていて、他人の日記もそういう風に読んでいるから、近さというよりは、共通語彙がどの程度あるだろうというくらい。

みんな公用語があるだけの異星人という認識が正しいのではないか。

はい、おやすみなさい。

良い夢を。


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