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2021年06月09日23:06

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雑多



マクロでじゃんけんゲームを組んだら、写経したはずなのに、あいこがない世界になった。僕がグー、機械がグーでもリザルトは負けになる。ほぼ負けゲーである。じゃんけんがこういうルールだったら世の中には浸透されていない。

夢は中学校の周りの街並みが舞台。僕はもともと「町民」なのだが、この町の中で一番栄えていた。スーパーもあったし、行ったことはないがカラオケもあったし、ゲーセンみたいなものとか、町で唯一の制服屋さんがあったり(地域振興券懐かしや)、温泉もちょっと離れた所にある。まぁ大人にとっては車を飛ばせば市の方に行けるからたいしたことはないが、個人的には今でも好きな街並みである。進んで行くとツツジの公園があったり、鹿の公園があったりする。(この情報で検索したら、地元が特定されそうだが、僕はもうそこには居ないから問題はない)

夢の中で久々にそのあたりに行ったら知っている人が動画を撮っていた。相手も覚えていて撮られて、会いたい人を見かけてほっこりしつつ、会いたくもない人達に追い掛け回される。もちろん夢の中なので、実際にはそこにはない神社なんかも出てくる。温泉宿の近くに住んでいる同級生が亡くなったという話を聞いたところは、なんとなくリアリティがあった。まぁもう会うことは無いことと亡くなっていることは僕の世界の中では近似よな。

現実世界の話。

なんだか頭があまり回っていない気がした。仕事で言葉が上手く出てこない(いつもだから程度問題である)し、上手く上司に説明できない(これも略)。

そもそも現実とは何であるかというのがカオスになってきているのだろうなと思われる。自分に向き合って世界の成り立ちまで考えないといけないというもなかなかだが、割と核心に近いこと。

むかーし読んだ、今でも好きな妖怪漫画で、妖怪が「イノチってなんだ、動くことか」みたいなことを最初に発する。数々の冒険のあと、主人公に、「もうイノチに対する認識は変わっているだろう」と言われるのが残っている。生命維持活動は物理世界におけるイノチだが、人が生きているって、そういうことではないよな、ってほんとに皆分かっているのだろうか。

ということで、今日は数学的思考の本を読んだ。啓発本なんだが全然啓発本ではなかった。まず数学的思考は、問題解決のためのものではなく、世界を拡張し新しい問題を発見することだとのこと。なんかそうだなって実感しているから全く違和感がなく読める。

数学は言葉であるというのも分かる。で、言葉を自分に落とし込めるかというのが世界そのもので、なんならそれぞれの宇宙であるということ。不確定性原理とか、トンネル効果が説明されていたのだが、要は、世界に誤差がないなんてことはないとか、量子は可能性的に存在するとか、文字では理解できても言葉としては腑に落ちないみたいなこと。ほんとの科学はやけに混沌としている。

こういう、素朴な自分とは離れた世界があるということを自分の宇宙に取り入れるのが言葉なのだろうなという感じ。数学の言葉は世界に存在しないことを存在として記述することだという話は、人生で言えば当たり前からの脱却でしかない。

算数論も面白かった。日本人は暗記教育で徹底的に四則演算を教育されるから、教室設例だが、100円の商品に対して73円払ったとしたら、100-73で27円と計算できるが、アメリカでは1ドルに対して73セントで支払われたら、100=73+10+10+7として足し算で計算するとか。会計学の話でもこういうことが書いてあった。ニュアンス的には左右対称を好むみたいな感じだったが。

法律ないし、裁判の話も出てきた。一般的な感覚では心神喪失状態で殺人犯して無罪になるのはおかしいと感じるが、ここでは法律宇宙としての法則が働いているのだとか。僕はかれこれ10年ぐらいやってきたが、相場感が全然分からなかった。なんとなく法則性があるというのは分かるが、一貫性が感じられない。これは法律というルールを作るのも解釈するのも人であるということで、賢さというより、その時代に適応できるのかという話だと思われる。まぁ、一般的感覚としての理不尽性に対する回答くらいはできるようにはなっているが、だからと言ってなんなのだろうという感じ。

心神喪失を裁けないのは、責任がない人を裁いてはいけないという国家権力の制限の結果であって、たまたま理不尽に見えるけれど、それはもっと理不尽な刑罰を回避せざるをえない大きな網を抜けたものでしかない。まぁこの話は良い。

人はどこで生きているのかのところはとても示唆的だった。人は物理世界では生きていない。著者の言葉では情報世界だし、現象学的には現象世界になる。どちらにせよ、今まで集積してきた情報の近似で生きているということ。

情報とは何ぞやになってくるからややこしいが、おそらくこういうことがあったらこういうことになるというインプットとアウトプットの例を曖昧に採り入れていること。

曖昧に採り入れているからこそ、なんとなく同じものは同じとできる。昨日の自分と今日の自分は完全に一致しないし、それは対象も同じことだが、これを同じとできることが近似で世界を統一化できる脳力。AIは顔認識とかライオンがライオンであることを認識するために膨大なインプットが要る(らしい)。

ここから考えていくと、自分が認識している世界とか他者も自分の情報世界の中でしか存在しない。これを寂しいと思うかどうかそれぞれかと思うが、認識方法として、完全に相手だけを見ることはできない。こういう所作をすればこうなるのだろうなって他者に対して当たりを付けて接している。というか、そもそもこういう方法論しかない。

これって、実はもっと遊べる要素なのではと思ったりする。
こういう境地に至ったのは、普通じゃない接し方をしてくれた例が実際あったからのだがここでは書かない。

この道具というか、意識は物理寄りの人間関係で遊んでも良いのかもしれない。僕がこうであるという認識というホメオスタシスをぶっ壊してみるとか。インターネット世界では十分遊んでいるからこれ以上はやらないが。

もう1つは、自分が煩っている今は過去からの蓄積の近似でしかないとすれば、この原因は今ではなく過去にあるのだろうなというカオス。今を見ているようで、過去に呪縛されている。時間の流れは自分の中の宇宙ではどうとでもなる。

人間関係怖くないなと思ってきているのは、どんなに近しい人でも、それほど観測している訳ではなく、自分にとっての僕しか見ていないということが分かってきた。僕は割と当人にとっての当人を考えるのだが、こういうのは馬鹿らしい(やめないけど)。

印象がネガティブだったら書き換えれば良い。

そうこうして、僕はやはり、言葉に生きたいと思う。
言葉に対して誠実であることも大事だが、言葉は現実と虚構の間にあるものでしかないということ。なんなら肉体はもっと虚構(情報)寄りである。

嘘を付くという行為は言葉と物理の乖離だと思うが、言語上の嘘って、

まぁ良いか。

よく分からんけど、勘で生きるのが人生よな。

では、おやすみなさい。


良い夢を。







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