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2021年06月03日00:33

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脳と自分の関係




何か夢を見た気がすると思い1瞬だけ掘り返したら出てきた。同窓会みたいな状況なのだが、場所があんまりどこか分からない。そうして遠目で集合してきた人たちを見たとき、うえぇあんまり会いたくない人達だと、一度引き返す。そうして、いや、会いたい人も居るだろうと思ってもう1回でかけると、中学生時代の人と、変な山道と人工物の組み合わせのような道を通っていた。山道にふとあるフェンスとか人口的な扉とか気になるよな。

なぜか全員男であった。最初に嫌だなと思ったのは時系列で割と高圧的だった人達で、別に中学時代の人達の方も主観的には会いたいとは思わないが、脳的には良い記憶だったのかもしれない。

脳と主観的な意識が乖離しているのが夢かもな。メタ認知と夢の一致は割と近いところにあるのかもしれない。


さておき。

なかなか日中は暑いが、体調はいかがでしょうか。最高気温30度越えってぎょっとするが、そんなに室外に居る生活ではないから、特になんともない。異常気象だと雑談から聞こえてきたが、ほんまかと思う。気象ニュースも確か30年分くらいしか参照していないとどこかで読んだ気がするし、異常に対する正常の幅が狭いだけなような。室外が普通で、学校にも空調が無かった時代の方がよほど体感的には暑い。なんならいい大人だから電気代を払うことで暑さを我慢する必要がないし。財産より生命・身体の方が価値は高い。

異常も継続すれば正常になるし。

文章をもっと柔らかく書けないかということを考える。指針としては、書きたいことを書くのではなく読みたいように書くのだという、どこかの本のフレーズ。言葉って自分の現象化でもあるが、相手にとっての現象でもある。僕の文章はまぁまぁ誰かがこんな風に書いてくれたら良いなというところもあるが。知識とかではなく、「感じ」の言語化。この極致が文豪の小説だろうなという感じ。

柔らかさ。人間は固いものだと学習してきたが、今や、人間って思いの外やわやわなんだんだなというところに注視するようになった。たやすく何かに左右されてしまう。「知恵」とは自分なりの判断基準を持つことだというフレーズを本屋の人気本の中で見たが、これがあることは柔らかい方に入る。知恵はおそらく自分も他人も強制しない。


そうそう、応用神経学の続き。
あまり読み進められなかったが、これは味わっているとしよう。

脳が感じる不安とか、意欲とか、痛みと快楽の結びつきのところを読んでいるのだが、こういうの読んでいると、やはり自分は今までの蓄積がほとんどなのだろうなと思う。価値観も同じことが積み重なった結果ということらしいし。

ともあれ、漠然と感じる快、不快は、脳内のホルモンバランスによるものであり、ホルモンが出ているかどうかも脳の経験則によるということは分かった。嫌な教科でも好きな先生だったら成績が良くなるという現象は、脳が先生を求めているというか、先生が発する情報に注意が向かう作用であるということ。

対象に対しての情報を漏らさないようにする状態を「求めている」とするのは分かりやすいな。これは対世界でも同じ。脳が好きではないことは、どれだけ時間かけても採り入れられない。こともないか。いやいや継続するというモチベーションもあるらしいし。

こういう世界の仕組み系の読み物は大好物。この本は結局のところ個体差があるということを何回も書いていて、それも良い。主観的に採り入れた気になることと、脳がその気になることは違う。

で、心理的安全な状態でないと、新しいことは受け付けないという概念があった。ある程度情報が蓄積されて世界観が形成されると、未知の情報に対して忌避感が生じるらしい。これが不安。何か新しくおべんきょしたいという主観がある人にとってははた迷惑な話だが、この機能は人類が種として存続するためには必要なものだったのだろうなと思うと感慨深い。

わからないものよりわかっているものに依拠する方がそりゃあ安全である。

ただ、僕の脳を省みた時、割と不安定な不安を求める傾向がある。大学で大阪に出てきたとき、知り合いが全く居ない状況を主観では不安だったのだが、脳的には楽しんでいた。なんなら、解放感があったと言っても良い。知り合いがいることは安心だが、この安心は、時間が止まった安心でしかない。


という意味では世界への不安は原動力にしかならない。

まぁ、人に対する不安が世界へのこれと等価なのかというとなかなか難しいが、僕はいつか結婚式を挙げる時が来たとしたら、今まで接してきた人全員に招待状を送って、中身に「来たいなら来れば良いよ」って書いてしまう野望を持っているから、割と人に対する不安も楽しんでいるのかもしれない。誰も来ないなら来ないでゆっくりパートナーと楽しめるし。

僕が自己評価として、何処にあっても大丈夫だなと認識しているのはこういうところ。
バックパッカーやってみようかな。

意欲については、生活の当たり前を能動的に楽しめば良い。同じ家事でももっと早くするにはとか、効率的であるにはとかを試行する。洗い物の順番はどんどん変わっている。こういう試行による自分の変化も「不安」に含まれるのかもしれない。当たり前が崩壊するし。

主観的に何かを得ただけでは意識の変化は起こっても脳までは至らない。宗教に対するうさんくささは、合理性がない行為への忌避だろうが、自分の合理性を突き詰めている人ってそんなにいるのかという疑念はある。お参りのルーティン(鳥居の端っこを通るとか)も個体の脳のモチベーションを整えるという意味では捨てたものではない。

痛みと快楽は性癖に寄ってくる。辛い物が好きなのも痛覚への依存だからある意味マゾではある。こういう痛みを好いてしまうのは、痛みを脳が感じたときに、それを相殺させる方向にホルモンが分泌されるかららしい。

刺激を求めるのが脳。

経験則で言えば、浮気された事が無茶苦茶痛くてカオスになって、でも好きだってなったのは脳的な作用だったのだろうな。番にならなくて良かった。僕を固体として捉えている人ではなかった。

こういう知識が増えれば増える程、自分ってただの柔らかい存在なのだろうなとなる。
ただ、柔らかいなりに自負はあるから、脳の作用にも抗ってみたいし、コントールもしてみたい。いいことレーダーではなく原文では良いことセンサーだった。

自分であることって、自分を説明するときに他を持ってこなくても良くなることだろうな。
僕は、プロフィールでいちいち説明しなくても人柄は表現されていると思うから細かく客観化する気はない。やろうとすればできるが、必要性を感じない。

ここまでかな。

おやすみなさい。

良い夢を。



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