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2021年01月24日23:54

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1月19日が誕生日である人々

840年、東ローマ帝国アモリア王朝の第3代(最後)の皇帝、ミカエル3世(Mikhaēl III ho Methysos)が誕生。同王朝第2代皇帝テオフィロスの子。晩年は、アルメニア系の側近バシレイオスを重用するようになりました。そしてバシレイオスは、ミカエル3世のもとで第2の実力者であったバルダスを866年4月に暗殺し、ミカエル3世もこれを黙認しました。こうしてミカエル3世の有力重臣となったバシレイオスは、その1ヵ月後には共同皇帝として即位。だが翌年、867年9月23日または24日にミカエル3世は対立したバシレイオスによって暗殺されてしまいました。バシレイオスは皇帝バシレイオス1世として即位し(マケドニア王朝初代皇帝)、ここにアモリア王朝は断絶したのです。
1200年(正治2年1月2日)、曹洞宗の開祖、道元が出生しました。同宗旨では高祖と尊称されます。他の宗派の開祖たちと同様に比叡山で修業をスタートさせ、中国に渡って悟りを開き、帰国しています。彼は一般には道元禅師と呼ばれます。徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えました。『正法眼蔵』は、和辻哲郎など西洋哲学の研究家からも注目を集めました。建長5年(1253年) 病により永平寺の住職を、弟子孤雲懐奘に譲り、俗弟子覚念の屋敷(京都高辻西洞院)で没しました。享年54(満53歳没)。死因は瘍とされます。なお、曹洞宗には本山が加賀の永平寺と現在の川崎市の総持寺の二つがあり、両者は反目しあい、いさかいが絶えないので、「騒動宗」と揶揄されることがあります。
1736年、スコットランド出身の発明家、機械技術者、ジェームズ・ワットが生まれました。トーマス・ニューコメンの建造した蒸気機関へ施した改良を通じて、イギリスのみならず全世界の産業革命の進展に寄与した人物です。電力の単位W(ワット)の名の由来にもなっています。インクが裏まで染み込みやすい薄い紙を使い、それに別の紙を重ねて圧力を掛けることによって、紙から別の紙に内容を転写する手法、すなわち複写機の前身も開発しています。1819年8月25日、83歳の時に自宅で亡くなり、同年9月2日に埋葬されました。
1747年、ドイツの天文学者、ヨハン・ボーデが生まれました。ヨハン・ティティウスが発見した太陽系の惑星の軌道に関する法則を世に紹介したこと、ウィリアム・ハーシェルの発見した新惑星(天王星)に Uranus の名前を提案したことで知られます。また、後にメシエ天体に数えられる天体を数多く発見しています。1826年11月23日、ベルリンで76歳で死去。
1798年、フランスの哲学者、数学者、社会学者、オーギュスト・コント(イジドール・オーギュスト・マリー・フランソワ・グザヴィエ・コント)が生まれています。1817年からアンリ・ド・サン=シモンの教えをうけ、助手を務めたこともありましたが、1824年にけんか別れしてしまいました。1841年から1847年までジョン・スチュアート・ミルと親交がありました。また、「社会学」という名称を創始しました。一般に「社会学の父」と称されますが、晩年には交際していた女性クロティルド・ド・ヴォーの死によって宗教的傾向を強め、「人類教」を唱えて自らその大祭司となるなど、かつての科学主義を離れました。生涯を在野の学者として過ごし、1857年9月5日、パリで病没。
1809年、アメリカの小説家、詩人、評論家、エドガー・アラン・ポーが生まれました。文筆で身をたてるべく詩や短編小説を創作し始めます。筆名には、養家名のアランをそのまま名乗ることはなく、ほとんどエドガー・A・ポー、あるいはエドガー・ポーとしています。ゴシック風の恐怖小説「アッシャー家の崩壊」「黒猫」、世界初の推理小説と言われる「モルグ街の殺人」、暗号小説の草分け「黄金虫」など多数の短編作品を発表、また1845年の詩「大鴉」でも評判を取りました。また同時に有能な雑誌編集者であり、文芸批評家でもありましたが、飲酒の悪癖などでトラブルを起こす癖はなおらず、いくつもの出版社を渡り歩いていました。1849年10月3日、ポーはライアン区第4投票所にあたる「グース・サージャンツ酒場」にて異常な泥酔状態に陥っているところを旧知の文学者にたまたま発見され、ただちにワシントン・カレッジ病院に担ぎ込まれましたが、4日間の危篤状態が続いたのち、1849年10月7日早朝5時に帰らぬ人となりました。その間ポーは理路整然とした会話ができる状態でなく、なぜそのような場所で、そのような状態に陥っていたのかは誰にもわからないままとなりました。その上奇妙なことに、ポーは発見されたとき他人の服を着せられており、また死の前夜には「レイノルズ」という名を繰り返し呼んでいましたが、それが誰を指しているのかも分かりませんでした。ポーの死の真相は謎のままですが、アルコール中毒による振戦譫妄、心臓病、てんかん、梅毒、髄膜炎、コレラ、狂犬病などが死因として推測されています。
1839年、フランスの画家、ポール・セザンヌが生まれました。当初はクロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに印象派のグループの一員として活動していましたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求しました。ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及されます。1906年10月23日、制作中に発病した肺炎で死亡。享年67。
1862年、小説家、戯曲家、軍医の森鴎外が生まれました。本名は森林太郎(もり りんたろう)。最初に断っておくと、朝日新聞社からの給料で暮らせた夏目漱石同様、鴎外の生活費は原稿料や印税ではなく、軍医としての給料で成り立っていたのです。文士では食えません。名作文学全集に収められている純文学者達もほとんどが生活保護で老後を過ごしていたのです。ドイツからの帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入りました。その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより一時期創作活動から遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」なども執筆しました。晩年、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長なども歴任しました。1922年(大正11年)7月9日午前7時すぎ、親族と親友の賀古鶴所らが付き添うなか、腎萎縮、肺結核のために死去。満60歳没。
1891年、政治家の中山マサが長崎県長崎市にイギリス人の父パワーと日本人の母、飯田ナカの一人娘として生まれました。元自由民主党衆議院議員。日本初の女性閣僚(厚生大臣)。在任期間は5ヶ月と短かったものの、母子家庭への児童扶助手当支給を実現しました。1976年10月11日死去。中山太郎(元衆議院議員)は長男、中山正暉(元衆議院議員)は四男。中山泰秀(衆議院議員)は孫。
1941年、アメリカの元プロレスラー、パット・パターソンが生まれています。現役時代はサンフランシスコでレイ・スチーブンスとともに、シスコのカウパレスを常に満員にするスターでした。シスコだけでなくNWA、AWA、WWFの各団体で主要タイトルを獲得しています。新日本プロレスに来日したときはジョニー・パワーズをエースとしたタッグチームで北米タッグ戦線に投入されましたが、NWF限定のパワーズと組まされるのは大いに不満だったことでしょう。GAYですが、仲間レスラーに言い寄るようなことはなかったそうです。現役引退後はWWEのクリエイティブ・コンサルタントを務めています。
1943年、アメリカの女性ロック歌手、ジャニス・ジョプリンが生まれました。優れた歌唱力と個性的な歌声を持ち、1960年代後半の著名な女性ロック・シンガーでした。若くして亡くなり、27クラブの一員として記録されています。彼女が生前最後に公の場に姿を現したのは、1970年6月と8月に放映されたテレビ番組でした。6月の番組で、彼女は高校の同窓会に出席する予定だと述べました。同じ番組で、自分は今までクラス、学校、町、そして国中の笑い者だったとも語っています。一躍スターとなり彼女は同窓会に出席しましたが、その際も疎外感の中、孤独な表情がカメラにおさめられています。この一件は、ジャニスの孤独感を表す象徴的なエピソードとして語られています。1970年6月29日から7月3日、「フェスティバル特急」と呼ばれた列車に乗って、カナダ・ツアーを行いました。ザ・バンドやグレイトフル・デッド、バディ・ガイ等が同乗した豪華なツアーで、この模様は、後に映画『フェスティバル・エクスプレス』として公開されました。1970年10月4日、アルバム『パール』の録音のため滞在していたロサンゼルス、ハリウッドのランドマーク・モーター・ホテル、105号室、ベッド横の床に倒れ死亡しているのが発見されました。そのかたわらには4ドル50セントと、封の切られていないマールボロ (たばこ)が一箱残されていました。発見者はフル・ティルト・ブーギー・バンドのロードマネージャー、ジョン・クックでした。27歳没。使用したヘロインが通常のものより高純度であったため、致死量を越えたことが原因であるとされています。
1948年、女優の丘みつ子が生まれました。若い頃は十朱幸代のそっくりさんと言われていたかと思います。三浦海岸の海水浴場で行なわれた「ミス人魚コンテスト」で優勝し、当初はモデルとしてデビュー。1968年、東映ニューフェイスに最高点で合格した日に日活へ入社した現代っ子。すぐに大学生の間で人気が出たため、日活が吉永小百合・浜田光夫コンビの次に沖雅也とコンビで売り出そうと計画し、主演デビュー(沖と共演して『ある少女の告白 禁断の果実』に出演)。1980年代に多くの母親役を演じて「日本のお母さん」と評され、活躍。同時期に健康的なイメージから「マラソン女優」と持て囃されましたが、多忙によるストレスから拒食症に苦しんでいました。それを機に自己流で陶芸を始め、アトリエを構えるまでになっています。神奈川県足柄下郡箱根町在住でしたが、その広さ故に高齢化に伴う管理の難しさから転居し、現在は小田原市在住。
1950年、ジャズ歌手の金子晴美が生まれました。獨協大学を卒業後、水島早苗ジャズ・ヴォーカル研究所を経て歌手活動を開始。同期に数多くデビューした女性ジャズ歌手の中では本格派。1980年にデビュー・アルバムを発表して以来、2000年までは順調に出し続けていましたが、その後途絶えています。地道にジャズクラブに出る歌手ではなかったし、公式サイトも消えています。現況が不明。
1954年、シンガーソングライターの松任谷由実が生まれました。旧姓名および旧芸名は荒井由実。1972年にシングル「返事はいらない」で荒井由実としてデビュー。愛称は「ユーミン」。他アーティストへの作品提供の際には、本名のほか、グレタ・ガルボをもじったペンネーム呉田 軽穂(くれだ かるほ)を使用する場合もあります。夫はアレンジャー・松任谷正隆で、彼女の音楽プロデューサーを務めます。実家は東京都八王子市で1912年から続く、木造三階建の老舗の呉服店・荒井呉服店。中学時代にはカツラを購入し、寝ているように家族には見せかけ内緒で当時国内外の文化人が集まるサロン的存在だった港区麻布台3丁目(1969年まで麻布飯倉片町8番地の住所表記だった場所)のイタリアンレストラン「キャンティ」に出入りしており、またフィンガーズの追っかけもしていました。1971年に17歳で作曲家としてデビュー。その作品は彼女を本格的なデビューへと誘った加橋かつみ(元ザ・タイガース)へ提供した「愛は突然に…」です(当作品はリリース数年前、14歳当時の作曲)。彼女が始めた“見せる”ステージは1979年から始まり、本物の象が出た「OLIVE」、マジックを取り入れた「MAGICAL PUMPKIN」、エレベータを設置した「BROWN'S HOTEL」、噴水ショー「SURF & SNOW」、30mの竜に乗った「水の中のASIAへ」など年々エスカレート。億単位の金をかけ、内外の最新技術を積極的に取り入れた、コンサートの枠を超えた新たな一大エンターテイメントになっていました。当時のインタビューでも「レコードで儲けた分、コンサートで夢と一緒にファンの方にお返しするのが役目」と語っていました。1970年代、深夜放送ラジオでフォークシンガーやシンガーソングライターがリスナーの若者にセックスをしきりに奨め、日本がフリーセックス大国になるのを食い止めたのが彼女でした。恋愛とカップルづくりを推奨し、「若者のカリスマ」「恋愛の教祖」などと呼ばれました。手さえもつながないのに付き合っていたと称する団塊の世代には珍紛漢紛でしょうが(笑)。しかしそんな価値観を吹き飛ばすような異色作「真夏の夜の夢」にはびっくらこきました。「失恋」についてを歌い、彼女自身がライバルと評する中島みゆきの作風とは一線を画し、「中級以上の育ちじゃないとわからない世界観」「中産階級の手に届く夢」(当時の音楽ライターによる表現)を歌って、バブル景気に沸く時代の波に乗りました。1996年、旧姓・荒井由実の名で活動を行います。セルフカバーシングル「まちぶせ」を発売。2012年、歌手デビュー40周年として発売された「日本の恋と、ユーミンと。」がオリコン1位を記録し、CDアルバム売り上げ枚数は、ソロアーティストならびに女性アーティスト史上初の3,000万枚を突破。のちに100万枚(ミリオン)の売り上げを達成しました。2018年4月11日発売の「ユーミンからの、恋のうた。」が発売初週に10.8万枚を売り上げ、初登場1位を記録。2016年に自身が前作「宇宙図書館」で記録した女性アーティスト最年長記録を64歳3か月に更新しました。
1957年、漫画家、エッセイストの柴門ふみが生まれました。バブル期に既発漫画がトレンディドラマの原作として使用される一方で、恋愛エッセイを数多く執筆。恋愛の巨匠、恋愛の教祖とも呼ばれました。夫は同じく漫画家の弘兼憲史。柴門は彼のアシスタントをして、結婚に至ったのです。漫画家生活に明け暮れていた彼女がどうして恋愛を語れるのか、私には不思議でなりません。彼女の代表作『東京ラブストーリー』は鈴木保奈美、織田裕二主演でフジテレビでドラマ化され、大ヒットしました。
1967年、女性漫画家のねこぢる(本名:橋口 千代美)が生まれました。1990年『月刊漫画ガロ』誌6月号掲載の『ねこぢるうどん』でデビュー。当初のペンネームは「ねこぢるし」で後に「ねこぢる」と改名。可愛さと残酷さが同居する、ポップでシュールな作風が人気を博しました。1998年5月10日、東京都町田市の自宅マンションのトイレにてドアノブに掛けたタオルで首を吊った状態になっているのを夫の山野一によって発見されました。31歳没。交友のあった『危ない1号』編集者の吉永嘉明によると、山野はねこぢるの「お母さん」のような存在でもあり、彼女の自殺についても「あそこまで生きたのも山野さんがいたからだとも思う」と語っています。また、吉永嘉明の証言によれば、ねこぢるは鬱病で精神科に通院しており、出会った頃には既に自閉的な性格が完全に確立していたそうです。ねこぢるは売れっ子になる前から3日間起き続け、その後丸1日寝るという体内時計(サーカディアン・リズム)に逆らった不規則な生活を送っていました。その様子は自殺の二日前に描いた遺稿『ガラス窓』でも見ることが出来ます。ねこぢる自身は素顔や詳細なプロフィールをほとんど公表しておらず、『月刊漫画ガロ』1992年6月号の特集に掲載された彼女の写真のみが一般に素顔を見せた唯一の例でした。ねこぢる作品の多くは、子供特有の残酷さを持った無邪気な子猫の姉弟「にゃーこ」と「にゃっ太」を主人公とする一話完結型の不条理漫画でした。
1983年、シンガーソングライターの宇多田ヒカルが生まれました。本名は宇多田光(読み同じ)。宇多田照實・藤圭子夫妻の娘としてアメリカのニューヨークで誕生。幼い頃から日米を頻繁に行き来しながら両親による音楽の英才教育を受けて育ち、本人も5歳の時点で既に歌手を志していました。1997年、東京でレコーディングをしていたところ、この様子をたまたま見た当時の東芝EMIの関係者にスカウトされ、翌年の1998年末に15歳でCDデビュー。当初は正体を隠して活動していましたが、藤の実の娘であることが知れ渡ると「天才少女」として日本国民の注目を浴び、瞬く間にアイドル的存在となります。1stアルバム『First Love』は累計売上枚数765万枚を超え(オリコン調べ)、日本国内の歴代アルバムセールス1位になっているほか、2ndアルバム『Distance』では初週売上枚数が歴代1位となる300万枚(オリコン調べ)を記録しています。また、2007年発表の「Flavor Of Life」は当時のデジタル・シングルのセールスにおいて世界1位を記録しました。『日本ゴールドディスク大賞』「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」を2度、『CDショップ大賞』などを受賞しているほか、『First Love』『Distance』『DEEP RIVER』『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1』の4作品がオリコン年間アルバムチャート1位になっています。2010年に「人間活動」として翌年以降の音楽活動休止を発表。結婚・出産を経て、2016年に活動を再開し、その年のNHK紅白歌合戦にも出場しました。私の好きな彼女の曲は『First Love』の全曲と「SAKURAドロップス」です。私がまだコールセンターに勤めていた時代、アルバイトの東大生が「宇多田が家族3人で結成したユニット『U3』で、母親の藤圭子があんまり前面にしゃしゃり出てくるので、みんな退いていますよ」と言ってきました。

次は忌日。
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