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2020年12月30日00:50

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何でもないということ=何にでもなれるということ

「何でもない」ということは
「何にも属さない」ということであり
「どの立場も取らない」ということであるから
それは
「何にでもなれる(「何か(特定の具体者)」になる「前」であるから)」
ということであり
「何にも属すことができる(未だ「何」にも「所属」していないのだから)」
ということであり
「どの立場も取り得る(未だ「どの立場」もとっていないのだから)」
ということである。
(西田幾多郎の
 「絶対無」も
 「絶対に無」である限り
 「何にでもなれる」ということであり
 それゆえ
 「絶対無の場所」は
 「何でも受け入れることのできる場所」
 である。

 何故なら
 「何かを拒否し、排除する場所であるのなら
  絶対有の(絶対に何らかの意志を持つ)場所
  であり
  絶対無の場所ではない
 からである。

 その意味で
 「絶対無の場所」
 は
 「絶対に何らの意志も持たない場所」
 であり
 同時に
 「何の意志でも持ちうる場所」
 である。)

シェリングが『啓示の哲学』で明らかにした
積極哲学期のポテンツ論では、
上記のことに「加えて」
「何でもないということ」

「何かであることになった時に、
 それでも尚
 何でもないということのままである(いる)こと」
を説いている。

「存在可能者(das sein Könnende)」

「何でもないということ」
であると同時に
これが
「存在」へと起(た)ち上がった時に
「何か」になってしまうことを
「防ぐ」ために
シェリングは
「純粋存在者(das rein Seiende)」を
「存在可能者」の「客体」として
(「存在可能者」は「純粋存在者」の「主体」として)
措定している。

「存在可能者」を
「純粋存在者」の
「主体」とし

「純粋存在者」を
「存在可能者」の
「客体」
としているのは
Geist(精霊)
である。

この
Geist
(プシューケー、Seele の系列ではなく、ルーアッハ、プネウマの系譜)

「主体」としての「存在可能者」と
「客体」としての「純粋存在者」を
「存在当為者(存在すべきもの)」
としている。

「存在可能者」が
「何か」になってしまった状態を
シェリングは
「非存在当為者(存在すべきではないもの)」
と規定している。

これは
「存在当為者」の
「不可欠要素」の一つである「存在可能者」の
「逸脱(変質)」であり
総(すべ)ての「病(質料(生理)的には「病」、形相的には「悪」)」

「根源(原因)」
である。

「癌」も
「正常細胞(「存在可能者」)」
からの
「逸脱」
である。

「存在可能者」が
「非存在当為者」へと
「(逸脱)変質」した場合に
この「逸脱」を
「正すもの」
として
シェリングは
「純粋存在者」の
「存在必然者
(das sein Müssende
 =存在しないわけにはいかないもの
 =存在しなければならないもの)」化
を説く。

これは
「ポテンツを持たないもの」である「純粋存在者」

「ポテンツ化」
である。

この
「ポテンツ化
 (非存在当為者化してしまった存在可能者を
  元の存在可能者へ戻すことだけを目的とした意志と化して
  非存在当為者が
  存在可能者である自分に気づいて自覚することによって
  非存在当為者としての自分を放棄して
  非存在当為者としては消えて
  存在可能者としての自分に戻り
  現勢(actus)としてではなく
  潜勢(potentia)としての自分に留まるようになるまで
  ずっと監視し
  ポテンツ化した後もずっと
  存在可能者は単独での存在化=逸脱の傾向性を持ち
  この傾向性を自分では消し去ることができないので
  これを抑制するために必要不可欠な要素としての
  純粋存在者の役割を果たすこと)」
によって
「のみ」
「逸脱者
 (キリスト教の神話では
  原人間(アダムとイブ)の「堕落」として描かれている)」
としての
「非存在当為者(存在すべきではないもの)」

元の「存在可能者」

「戻す」ことができる。

この
シェリングの積極哲学期のポテンツ論で言われていることを
しっかりと踏まえて
現在の世界が
「非存在当為者化」していて
これを「存在可能者」へと「復元」し得る「唯一のポテンツ」
としての
「純粋存在者」の「存在必然者(存在しないわけにはいかないもの)化」した
「現勢(actus)」

「発見」して
「存在当為者(存在すべきもの)」
としての
「完成せる精霊(der vollendete Geist)」

実現(現生社会の病を治療)
しなければならない。

マルクス(Karl Heinrich Marx, 1818〜1883)が
描ききれなかった
「本当に来るべき社会」
を実現する
「純粋存在者」の「存在必然者」

特定すべきだ
(マルクスは
 「それ(「純粋存在者」の「存在必然者」)」
 を
 「プロレタリアート(労働者階級)」
 と考えた
 (と言ってもマルクスは
  シェリングの『啓示の哲学』を
  深く読んではいないだろうが)
 のだが)。

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最終更新
令和2(2020)年12月30日 午前1時06分
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