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2020年12月29日00:19

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バンヴェニストの中動態論とシェリングの積極哲学(「内態」と「完成せる精神」)

直観的な結論:

バンヴェニスト(Émile Benveniste 1902〜1776)が言う
 「内態」と「外態」は
 中動態系言語文法における
 「中動態」と「中動態に対立する限りでの能動態」であり
 それらは
 後期のシェリング(Friedrich Wilhelm Joseph Schelling 1775〜1854)
 積極哲学で規定した
 「完成せる精神(der Vollendete Geist)」における
 「存在可能者(das sein Könnende)」と「純粋存在者(das rein Seiende)」
 に対応する」

ということ。

つまり
シェリングの言う
「存在可能者(das sein Könnende)」は
バンヴェニストの言う
「中動態と対立する限りでの能動態」
と対応し
(に符合し)

シェリングの言う
「純粋存在者(das rein Seiende)」は
バンヴェニストの言う
「内態」
つまり
「中動態」
と対応する
(に符合する)。

と言うこと。

これは
「直観」であるから
「証明」ではない。

けれども
この「直観」が
現実の世界で行使された時に
その現実の世界が
「直観」と同じように動けば
「その現実」が
直観の「証明」となる。

「実証」とは
「仮説(仮証)」としての「直観(自証)」が
「現実の世界が直観と同じように動くことが確認された時に証明されること」
であるだろう。

なので
「直観(自証=宗教体験)」は
いつでも
最初は「仮説(仮証)」であり
(「本当にそうかどうかは判らないが(まだ実証されてはいないが)
  けれども順序からすれば最後に来るはずの「結論(仮証)」が」
 「最初に」出る)
その通りに現実が動けば
それで初めて「実証」となる。

その「仮説(仮証)」段階の
「直観」

述べる。

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

バンヴェニストの考えからは
二肢言語(「する(能動態)」か「される(受動態)」かの対立言語)
と比較して

中動態系言語(「中動態と対立する限りでの能動態」と「中動態」から構成される言語)

「中動態と対立する限りでの能動態」では
「動詞は主語から出発して、主語の外で完結する過程」を指し示し、
「中動態」では
「動詞は主語がその座(siège:所在地)となるような過程」を表している。
つまり
「中動態」では「主語が過程の内部にある」。
國分功一郎『中動態の世界』医学書院、2017年、88頁参照。)

したがって
「中動態と対立する限りでの能動態」は
「(動詞が、主語から出発して、主語の外で完結する過程であるから)外態」
「中動態」は
「(動詞が表しているのは、主語が、その場所となるような過程だから)内態」
とバンヴェニストは
言い換える。

この
「外態」をシェリングの「存在可能者」
「内態」をシェリングの「純粋存在者」に
対応しているとの直観が出た。

そのわけは

「存在可能者」

「純粋存在者の主体として
 純粋存在者がポテンツレスであり自分自身を表現できないのを
 補って
 純粋存在者を存在可能者は自らの客体として
 純粋存在者の表現者たる能力」
であるので
「主語である存在可能者が
 主語の外の純粋存在者で完結する過程を運動する」
が故に
「外態」であり、

「純粋存在者」

「自らはポテンツを持たないので
 自分自身を表現することはできないが
 存在可能者が主体として
 純粋存在者を表現してくれるので
 存在可能者へ
 自分自身の内容を
 存在可能者の客体となって(その意味では純粋に贈与するものとなって)
 言い換えれば
 存在可能者の質料となって
 存在可能者の表現内容となるもの」
であるから
「純粋存在者は
 主語である純粋存在者が
 純粋存在者と存在可能者による純粋存在者の内容表現過程の
 内部に居る」
ので
「内態」
である。

ところで
バンヴェニストも
國分功一郎さんも

「外態」である
「中動態と対立する限りでの能動態」

二肢言語における
「受動態と対立する限りの能動態」
へと
変質することや

「中動態」が
「能動態と対立する限りでの受動態」
へと
変質することを

詳しく論じていない。

それどころか
言語の歴史において

「中動態と対立する限りでの能動態」

「受動態と対立する限りでの能動態」

変質し

そのことは
「中動態」

「能動態に支配されて服従している受動態」
へと
変質させてしまった現実しか
見られていないけれども

シェリングの積極哲学からは
「能動態に支配されて服従している受動態」
の中に
「受動態を支配している「逸脱した(病の)能動態」

「中動態の主体として働いていた「健康な」能動態」

「復帰させる(治癒する)力」

「潜在している」
ことを
読み取ることができる。

「受動(受身=うけみ)」には
(1)単に相手の言いなりになるだけの服従

(2)相手の自由な働きを妨害しないことによって
   相手の意識を越えた働きを惹起する受け身

2つを区別するべきである。

「受動(受身)」の二種。

(1)相手の「悪意」や「悪行」を正せない「言いなり服従(受動態)」
(2)相手の
   「悪意」を「消し」、
   「悪行」を「止める(出来なくする)」
   「意のままにするが良い(好きなようにすればいい)受身(絶対無)」

ここで「絶対無」は西田幾多郎の術語であるから
本来はシェリングの
「存在必然者(dqs sein Müssende:存在しないわけにはゆかないもの)」
を出すべき
なのだが
シェリングの「存在必然者」には
「受動(受け身)」
の意味よりも
「非存在当為者(das nicht sein Sollende:存在すべきではないもの)」と
変質してしまった
「存在可能者」を
元の
(純粋存在者の主体として
 純粋存在者を客体として
 純粋存在者の内容を表現する能力であった)
存在可能者に
復帰させることだけを
意志するもの
という意味で用いられているので

「受動(受身)」というよりも
むしろ
「強い意志」
として表現されているので

「受動(受身)」の意味を示しうる
「絶対無」の方が
より
「受動(受身)」の意味を
担いやすいと思われる。

そうなると
シェリング哲学だけでは
問題を解決できず
西田哲学の考えも
必要不可欠となってくる。

西田幾多郎は
イギリス理想主義 British idealism
(オックスフォード理想主義 Oxford idealism)
(イギリスヘーゲル主義、新ヘーゲル主義)
者である
グリーン(Thomas Hill Green 1836〜1882)の人格主義や自由主義

ボザンケ(Bernard Bosanquet 1848〜1923)の国家論
の影響からか
(西田幾多郎はグリーンの倫理書やボザンケの哲学思想書を読んでいた)
イギリス理想主義が模索した
「個人主義と国家干渉との間の合理的関係」を
西田幾多郎も模索していたように思われる。

そのことが
中期の「絶対無の場所」の
「消極的」な論理から
「積極的」に「行為的直観の立場」や「歴史的現実の立場」
と言うようになったことに
繋がっているのかもしれない。

ところで
シェリングは
「完成せる精神(der vollendete Geist, der vollkommene Geist)」ということで

(0)出発点:「未だ存在しないが将来存在するであろうもの」
(1)第1原理:「存在可能者」
(2)第2原理:「純粋存在者」
(3)第3原理:「存在すべきもの」
        「Actus においても、Sein においても猶 Potenz に留まるもの」

そして(0)は分析前の第1、第2、第3原理の全一体であり、
それゆえ、
(1)と(2)と(3)は分析後においては区別されるが、
分析前は同じ一つのものとして区別し得ないのであるから、
これら3つは
「離れ難く結びついている」ということ、
しかも
(1)も(2)も(3)も
普遍的概念ではなく
唯一無二の「最も特殊な実在」であり
しかも
「最も根源的な実在」という意味で
「絶対プリウス」である
ということを
注意している。

けれども
「完成せる精神」は
「消極哲学」で語られているのであり
したがって
「完成せる精神」は
「現実の世界で実証」されて初めて
「積極哲学」で語られることができる。

そのつもりで
シェリングは
『神話の哲学』

『啓示の哲学』

著(あらわ)したのであり
『神話の哲学』では
人類の神からの「堕落」から神との「和解」直前までが「実証」され
『啓示の哲学』では
人類が如何(いか)にして神と「和解」して
再び神の世界へと還(かえ)るのかを「実証」する。

それをシェリングは
キリスト教の世界(『聖書』の世界)で実証しようとしている。

けれども
我々は
キリスト教の世界の「文献学的な実証」に
留まるのではなく

そこからさらに
医学的にも
言語学的にも
実証できると思う。
(私にはもうそれを行う時間が残されていないが
 そしてまた私の命もいつ尽きるのか判らないので
 私にはできないかもしれないが
 それを為すことの出来る人が現れるように
 アイデアだけでも示しておきたい。)

シェリングが積極哲学期に示した
ポテンツ論(「完成せる精神」による世界救済過程論)は
「実証(現実で「そうなる」ことを示)」されることを待つ
シェリング消極哲学の結論だ。

積極哲学期のシェリングは
この結論を出発点として
これを現実の歴史の中で
実際に存在していることを示すことで
実証しようとした。

その時に用いたのが
キリスト教であり
それはシェリングの住む世界では
キリスト教が最も信用されていたから
キリスト教を用いただけで

一般的に言えば
宗教を用いて
実証しようとした。

けれども
現代においては
宗教よりも
医学の方が
信頼されている。

しかし
シェリングの言う内容が
医学で扱われていなければ
哲学の方が
まだマシ
ということになる。

ただ
医学の中でも
心身医学だけは
宗教の内容と
重なっている。

精神医学は
哲学と
重なるところがあるけれども

精神医学は
宗教とは
実は
重なっていない。

もちろん
精神の病は
宗教と重なるところもあるのだけれども

精神の病を扱う
精神医学は
宗教と
重なっていない。

つまり
宗教でなければ
解決できない問題は
精神医学では
解決できない。

けれども
現状の心身医学は
「心身症」の治療は行うけれども
「精神病」の治療は扱わないのが
心身医学の「境界(限界領域)」となっている。

だけども
心身医学の「自律性療法(die autogene Therapie)」は
創始者のシュルツ(Johannes Heinrich Schultz 1884〜1970)は
著書『自律訓練法:精神集中的自然緊張緩和:臨床的実践的叙述の試み』
(das autogene Training: konzentrative Selbstentspannung:
 Versuch einer klinisch-praktischen Darstellung, 1932)
でヨーガの研究をしている。

山折哲雄(1931〜 )は
『図説日本仏教の世界』6「禅と無の境地」集英社、1989年、160〜175頁

ヨーガの坐法は
「動物エネルギー、生理的な感覚」を「解放する・目覚めさせる」坐法であり
禅(仏教)の坐法は
「動物エネルギー、生理的な感覚」を「抑圧」する坐法であり
「坐法=宗教的修行法」の「差」は
「その結果」も「異なるものにする」
という観点を示している

だから
自律性療法は
ヨーガの坐法による成果を医学的に応用し
人間の生理的なエネルギーを解放し
人間に内在している生理的なエネルギーに目覚めることを
可能にする
医学的技法である。

けれども
自律性療法は
医師でなければ行えない技法であり
誰もが自分自身に実施できない。
(私は1979年頃から
 自分自身に人体実験的に行っているけれども
 医師の指導を受けたことがないので
 医師に指導してもらおうと
 自律性療法を指導してくれる医師を探しているが
 自律性療法をきちんと行える医師が何故か居ない。)

その上
九州大学医学部以外で
自律性療法を
きちんと実施できる医師が
見当たらない(今のところ)。

でも
最も信頼できる
宗教原理を獲得できる方法は
自律性療法である。
(心身医学は Heinroth(Johann Christian August Heinroth 1773〜1843)
 が先駆者だが
 Heinroth はシェリングから多くの影響を受けており
 そのことが心身医学の発想に繋がっていることは間違いないと思われる。)


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最終更新
令和2(2020)年12月29日 午前2時47分
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