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2020年12月15日04:31

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備忘録日記:「意識における階層的フォルダ(具体的一般者の自覚的体系=観念的実在の体系)の基礎(観念的実在の於いてある場所=絶対無)」としての「場所」(西田哲学の場所論理解の一つの可能性)

以下の日記は
昨日の日記でも触れたように
2020年12月14日の午前0時過ぎに
投稿するつもりで
準備していた日記だけれども
気に入らなかったので
投稿を見送った日記です。
(昨日の内容と
 重複している箇所もあります。)

なぜ
気に入らなかったか
と言うと
西田哲学の理解が
不十分だと思ったからです。

けれども
mixi 日記は
後から編集できるので

せっかく書いた日記なので
気に入らない箇所は
編集するつもりで
出すことにしました。

タイトルに込められた意味は
元々
「mixi 日記は
 年月日をフォルダとする
 記憶装置だ」
と思ったので
(特に毎日書いている
 2020年12月の日記は
 そう思った切(き)っ掛(か)けだった)

それ(そう思ったこと)

西田哲学の
「場所」
との
共通点を描きたい
との意図で
書き始めた日記です。

けれども
西田が「場所」で指している内容は
「絶対無」であり
「絶対無」は
確かに
「フォルダ」のような役割も
果たしていて
(なぜなら
 フォルダは
 人間の通常の意識とは異なって
 意図や意地のように
 気に入った情報だけをインプットすること
 無く

 また
 自分の中に入れる情報を
 選(え)り好(ごの)みしたり
 取捨選択したり
 拒絶したり
 排除すること
 も無く

 どのような情報であっても
 つまり
 情報の質に関わらず
 (情報の量には限界があるけど)
 インプットできる
 からで

 そういう意味で
 絶対の無(絶対の無意志)として
 情報を素直に受け入れる箱
 としての機能を持っている
 からです。)

西田において
その
「フォルダ」
としての
「絶対無の場所」

「於てあるもの」

「判断的一般者、自覚的一般者、叡智的一般者、行為的一般者、表現的一般者
 などの
 具体的一般者」
です。

けれども
西田において
「絶対無」

単に「入れ物」としての
「フォルダ」を意味するだけではなく
「於てあるもの」である
「具体的一般者」を
「階層づけたり」
「同等に扱ったり」
「自己同一」として
「体系化」したり
「統一体」としたり
様々な
「積極的に
 「於(おい)てあるもの」としての
 「具体的一般者」が
 「絶対無の場所」に於いて
 働く自由を保証する環境」を
提供している。

我々の「判断」が
「歪んだり」
我々の「意志」が
「暴走」したり
(怒りに支配されたり)
するのは
「絶対無の場所」が
正しく
「於てあるもの」としての「具体的一般者」を
「統御」し得ていない時
つまり
「心」の
「バランス」

「崩れ」
「病態化している時」
でしょう。

こうなると
「具体的一般者」

支配されている
「歪んだ判断」や
「暴走した感情」の
「奴隷」として
「悪用」されてしまうことになる。

言い換えると
「知識」としての「具体的一般者」が
「先入観(歪んだ判断)」や
「怒り(暴走した感情)」の
「正当化」の為に
「利用」されてしまうことになる。
(だからこそ
 西田は
 「絶対無の場所」を
 「鏡」に喩えて
 「ありのままに
  絶対無の場所に於てある具体的一般者を
  映すもの」
 だと言うのだと思う。)

この
「アンバランス」を
「正す」役割を持つ
のも
「絶対無の場所」自身である
というのが
西田哲学の
真髄でなければならない。

ただし
そういう解釈は
誰もまだしていないし
(私は最初から
 哲学は
 心の療法でなければならない
 という主張を持っているのだが)
西田幾多郎自身も
そこまでは言ってないが

「絶対無の場所」が
「述語となって主語とならない具体的一般者」を
「格納しているフォルダ」である
と共に
「絶対無の場所に格納されている具体的一般者を
 体系的に統一している見るもの」
であり
「絶対無の場所に格納されている具体的一般者を
 映す鏡として絶対に質料的なるもの」
であるということは
昨日の日記で
明らかにできると思う。
(また執筆更新中だが)

まず最初に
編集前の
生の「昨日投稿用のデータ」を
本日未明に投稿し
そのあとで
「気に入らない箇所」を
改変していく
予定です。

なので
この日記も
末尾に
「執筆(更新)継続中」
とあるかぎり
「ライブ作成中」の
「日記」です。

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

西田幾多郎(1870〜1945)は
彼の思想的転機となり
その時点で
「私の最終の立場に達した様な心持がいたします」

ドイツ留学中の弟子である
務台理作(1890〜1974)への書簡(1926年6月8日)で
述べている
論文
「場所」(『哲学研究』第123号、1926年6月号掲載)
で提示した
「場所」という
彼独自の意味用法を持つ術語(テクニカル・ターム=学術用語)

次のような意図で
出された術語だと思われる。

つまり
そもそも
その書簡で西田自身が述べているように
古代ギリシア哲学以来の西洋の哲学が

特にアリストテレスにおいて
「主語となって述語とならないもの」を
「第一実体」とすることで
「Substanz」を
「定義」したように

(アリストテレスは
 「ウーシア(真実在)」を
 「主語となって述語とならない具体的個物」としての
 「第一実体(これが「Substanz=実体」の意味起源となる)」
 と
 「類・種などの(抽象的)概念」
 言い換えれば
 「述語となって主語とならない抽象的概念」としての
 「第二実体(これが「Essenz, Wesen=本質」の意味起源となる)」
 を
 区別していて
 「形相」としての「第一実体」にのみ「有」と捉えて
 優位性を見ていて
 「質料」としての「第二実体(概念的実在=本質)」は「無」と捉えて
 劣位性を見ていた
 (とはいえ
  アリストテレスの「本質」は
  彼が苦労して表現した
  「τὸ  τί  ἦν εἶναι=ト・ティ・エーン・エイナイ」
  「=であった(エーン)である(エイナイ)何(ト・ティ)」
  (「であった・である・もの」
   意訳すれば
   「過去から継承して現在あるところのもの」
   だからドイツ語では
   sein(在る)の過去分詞 gewesen(在ったもの)を起源とし
   実際、古いドイツ語では用いられていた sein の過去分詞としての
   wesen が「本質」の意味の「Wesen」へ転用されている。)
  なので
  「内在的超越者」を意味しうる
  優れた概念であったので
  第一実体には劣るとはいえ
  第二「実体」として
  「ウーシア(真実在)」の内に数えられているので
  「第一実体」としての「具体的個物(形相=形相的実在)」と
  「現実存在(エネルゲイア)」では
  切り離すことのできない不可欠な要素として
  「第二実体」としての「抽象的概念(質料=表象的実在)」は
  捉えられている。
 のであるから
 (プラトンは
  アリストテレスと違って
  真実在(ウーシア)は
  外在的超越者としての
  「イデア」だと考えて
  最も優位性を与えられていたのは
  「イデア」だった。
  なので
  アリストテレスにおける
  「具体的個物」は
  プラトンにとっては
  第一実体ではなかった。
  プラトンにとっての
  第一実体は
  (外在)超越的な
  「イデア」だった。)

 西田は
 「述語となって主語とならないもの」としての
 ヘーゲルの「die konkrete Allgemeinheit(具体的普遍)」に
(西田ではこれは「具体的一般者」と表現され、しかも
 ヘーゲルの「具体的普遍」と全く同じ意味では使われていない
 と思われる。)
 アリストテレスとは
 「逆に」
 「優位性」を見ている
 と捉えることもできるだろう。)
 
 どこまでも
「形相」を「有」とする研究のみを追求して
「形相のみを有とする考え方では無」とされる「質料」を
「異なる意味における有」として
「意識」を深く研究することが
これまで為されなかったことを
批判して

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

ただし
この批判は
上記の務台への書簡で展開されているの
ではなく
むしろ
論文「場所」と同時期に書かれた
論文「取り残されたる意識の問題」(1926年7月)
の中で
展開されている(旧『西田幾多郎全集』第12巻、5〜17頁)。

そこでは
次のように叙述されている。
(「 」内は西田幾多郎の叙述。( )内は補足。
 段落分けは私が理解する為に為(な)した。)

「具体的一般者の上に、
 尚かかる一般者が
 於てある場所
 といふものを考えることは、
 論理上不可能である
 と云ふでもあらう。

 併(しか)し
 アリストテレスは嘗て
 実体(ουσία)を定義して
 判断の
 主語となって述語とならないもの
 と云った。

 私は
 実体の定義
 として
 未だ
 これ以上のものを
 見出すことはできない。

 今日
 実体といへば、
 時間空間因果の範疇によって構成せられたもの
 と考へるのであるが、
 かかるものが
 「有るもの」
 と考へられるのも
 右(上)の定義に
 当嵌まる故
 でなければならぬ。

 若(も)し
 斯く云ひ得る
 ならば、

 之(これ)を
 逆にして

 述語となって主語とならないもの
 に於て、
 尚一層深い意義に於て
 有るもの
 を考へ得る
 ではなかろうか。」

西田は
ヘーゲルが考えた
「具体的普遍(西田の表現では「具体的一般者」)」
の上に

「具体的一般者」が
「於いてある場所」

「述語となって主語とならないもの」
として
考えた。

「場所=述語となって主語とならないもの」

アリストテレスの定義
「実体=主語となって述語とならないもの」

逆転させた定義。

つまり
「場所」は
「実体の裏側」。

言い換えれば
「実体=有(実在)」
であるのに対して
「場所=無(真実在=絶対無)」
という関係にある。

この「解釈」は
おそらく「私が初めて」では
ないだろうか。

西田は
「具体的一般者」を
「実在」であると
解釈しているようだ。
(美濃部先生による論文「西田における絶対無と個」
 『西田哲学会年報』第17号〈令和2年7月〉60-76頁参照)

ここで「実在」とは「有」のこと
であろうか。
シェリングの批判にもあるように
ヘーゲルは
消極哲学の哲学者であるから
ヘーゲルの言う「具体的普遍」は
「概念」であって
「実在」ではない筈。

にもかかわらず
西田は
ヘーゲルの具体的普遍を
「具体的一般者」呼んで
「実在」と
解釈している。

この解釈は
正確には間違っているのだろうけれども
西田の論理に順(したが)って
読み進めゆくと

西田は
「判断の主語」と成るものは
「実在(アリストテレスの言う実体)」
でなければならず
それは
ヘーゲルによれば
「具体的一般者」である
と言う。

それに対して
西田は論文「場所」で
古代ギリシア哲学以来
「実体=主語となって述語とならないもの=有」
(プラトンに於いては「真実在」は「イデア」。
 アリストテレスはイデアの超越性を認めず
 「主語となって述語とならないもの」を
 「真実在=第一実体」と捉えた。)
を定義してきたが

「何處(どこ)までも
 形相を有と考へた希臘哲学は、
 遂に 
 場所といふ如(ごと)きものに
 論理的独立性を
 与へること
 なくして終わった。」

なので西田は
アリストテレスの
「実体=主語となって述語とならないもの=有<イデア=外在的超越者」
という定義では
与えられない
「無の定義」

「場所=述語となって主語とならないもの=無<絶対無=内在的超越者」
として
「意識」

「論理的独立性」を
与えようとした
のではないか。
(西田はよく
 「でなければならない」
 という表現を使うが
 この表現は
 「論理は未だ与えられないが
  そうであるべきだ」
 という
 「将来証明されるべきものの予告」
 を示す表現と考えられる。)

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

この「解釈」も
私が初めての「解釈」だろう。

しかし問題は
その「解釈」の
「妥当性」を
「論理的に証明すること」
である。

これは
西田の記述を辿ること
でしか
為しえないのだろうか。

私は
それが一番手っ取り早い
だろうけれども
本来は
証明は
実証であるべきで
その為には
医学の方法と
哲学の方法と
教育の方法が
一体化していなければならない。

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

アリストテレスの定義
とは
「逆」に
「述語となって主語とならないもの」
ということで
(「述語となって主語とならないもの」を「場所」と定義して)

「意識」を
「論理的に定義」しよう
という論文が
上記の論文「場所」
であった。

西田は
「意識」

ヘーゲルの
「die konkrete Allgemeinheit(具体的普遍=西田では「具体的一般者」)」を
判断における「主語」と成るべきもの
(即ち「真実在」)

「自己展開するもの」

捉えて

判断的一般者<自覚的一般者<叡智的一般者(知的直観の一般者)
<行為的一般者<表現的一般者<絶対無の場所

という
「具体的一般者の自覚的体系」
を考えた(『一般者の自覚的体系』1930年)。

そして今度は
(後期のシェリングが
 『啓示の哲学』第一部で
 「完成せる精神」を規定するまでに辿った道を
 逆転させて
 「完成せる精神」による
 「完成せる精神の運動そのもの」を
 叙述したように)

「一般者」の「最終形態(最も基礎的な一般者)が
「絶対無」であることが
『一般者の自覚的体系』で明らかになった
後で
今度は逆に
「絶対無」による
「絶対無の運動そのもの(絶対無による自覚的限定)」を
叙述した(『無の自覚的限定』1932年)。



「執筆(更新)継続中」(ちょっと休憩中)
========================================
最終更新
令和2(2020)年12月15日 午前8時12分
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