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2020年12月14日05:39

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本年(令和2=2020年)度中に仕上げたい課題その1(西田哲学理解)

昨日の日記にも書いた
ように
昨年(令和元=2019年)度の
京都大学文学部の夏期集中講義
「西田の具体的一般者について」講師:美濃部 仁 明治大学教授
(2019年9月10日〜13日、正午過ぎから午後6時過ぎまで
 2019年9月9日の全講義が台風で中止になった為、残りを延長措置。)
に対する
リアクションの為のメモ
(課題レポートの締め切りは
 2019年10月20日頃だったと思うが
 私は博士後期課程修了に必要な単位を既に取っていて
 (ただし学位=博士号取得の為に必要な論文の準備のみ出来ていない。
  と言うか、博士後期課程は、そもそも授業の単位は求められず、
  学位=博士号を取得する為に必要な研究成果をあげるために
  最低限3年間が猶予されている。)
 単位を取る為の課題レポートを提出する必要はないのだが
 美濃部先生の好意で聴講させてもらったので
 自分の感想を述べたいと思ってずっと準備し続けている)。

この日記は
何度も書き直したりしながら
仕上げていくつもりなので
日記の最後に
「執筆(更新)継続中」
がある間は
考えたり書いたり
し続けている
最中(さいちゅう)であることを
最初に言っておきます。
(その意味で
 この日記は
 最後に「執筆(更新)継続中」が
 ある限り
 「ライブ発信(執筆)中」
 の日記です。

 この日記も、最初に書いて
 2020年12月14日午前0時過ぎには
 投稿しようと準備していた
 2843文字の
 日記を
 気に入らないから全部破棄して
 一から書き直してます。

 それにとどまらず
 ワードに下書きした文章も
 3つあるけど
 それらもまた
 ワードだから保存してあるけれども
 この日記に使わなかった。

 西田幾多郎の思想は
 多くの人々が研究している
 にもかかわらず
 未だ十分に芯を突いた研究が
 出ていない様に思うので
 
 なんとか西田幾多郎自身の考えを
 この世界に届けたいと思うから
 よけいに何度も書き直すことになる。)

私は
後期のシェリング哲学
(特に『啓示の哲学』)を
中心に研究しているけれども

西田哲学も
好きなので
これを正しく
(西田幾多郎が考えた通りに)
理解しておきたい
と思っているので
時間が掛かり過ぎてしまっている。

実際
集中講義の題目であった
「西田の具体的一般者について」
の理解の為に
ヘーゲルの
die konkrete Allgemeinheit(具体的普遍)
について調べたり
(参考文献:
 吉田 達『ヘーゲル 具体的普遍の哲学』東北大学出版会、2009年
 高坂史朗『実践哲学の基礎』第三編第二章「具体的一般者」創元社、1983年)

西田が
自らの考えの転機となり
同時に
「私は之(論文「場所」のこと)によって
 私の最終の立場に達した様な心持がいたします」

ドイツ留学中の弟子
務台理作(1890〜1974年)に
書簡(1926年6月8日京都帝国大学より発送)
で述べている
(旧『西田幾多郎全集』第18巻、303〜304頁)
ように
「西田哲学」という名称が使われる契機となった
論文「場所」(1926年6月『哲学研究』第123号掲載)

最重要「術語(technical term=学術用語)」
たる
「場所」について

なぜ西田は
「場所」という言葉を用いて
自分自身の哲学を
開始したのか
について
正確に知ろうとしている。

記述の方法は
「西田幾多郎に語らせること」
を基本としたい。

西田哲学に対する
自分の意見は
いくらでもある。

自分の理解は
毎日更新し続けている。

それらを
(西田に語らせる方法は
 新版や旧版の『西田幾多郎全集』を読めばいいことだし。
 ただし、西田の文章は
 結局は、読む者が宗教原理を把握できていなければ
 論理的な箇所以外は理解不能に陥ることは
 最初に知らせておく必要がある。
 全部を
 宗教原理の把握(絶対無の場所から見る術)
 無く
 理解しようとしても
 無理と思う。)
最初に少し
書いておこうか。

そうした後に
西田幾多郎の文章で
自分の解釈を
批判的に検討しようか。

逆か?
本来の研究は。

まあいいや。

西田は
そもそも
カントの批判哲学を契機として始まった
ドイツ観念論の哲学者たちによる哲学を
越える哲学を
創ろうとしていた。
(と言うよりも
 哲学研究を進める内に
 自分自身の心に去来する現象を説明できる哲学が
 既存の哲学の中には存在せず
 そのため
 自分自身の心霊上の事実を説明するために
 既存の哲学には無い発想を持つ哲学を
 自分だけの独力で創造するしか
 なかったのだろう。)

西田哲学
と言うと
西田自身の
坐禅経験と
結び付けて論じるべきか
それとも
切り離して論じるべきか
意見が一致していない。

私は
自分自身の実体験から
次の様に考えている。
(先に結論を書いておきます。
 西田の思想は
 「働くもの(具体的一般者の自己限定)」に
 「論理的根拠」を与えるために書いた
 『(具体的)一般者の自覚的体系』であっても
 既に
 「働くもの」としての「具体的一般者の自覚的自己限定」へ
 「見るもの(意識するもの)」としての
 「絶対無の場所の自覚的(自己)限定」が
 潜勢していることが
 「前提」とされていると思われるので
 この
 「絶対無の場所」からの「自覚的限定」という「直観(見るということ)」を
 宗教の行を通じたり
 自律性療法を用いて
 自分自身のものとしていなければ
 そもそも「何の事を言っているのか」見当すら付かない
 ことになってしまう。
 その「苛立ち」を「吐露」したのが
 田邊 元(1885〜1962)による
 悟性的には当然の
 「批判」だったのだと思う。)

西田が坐禅を始めた動機は
哲学研究に資するため
ではなかったと思う。

西田の
日記には
「神経衰弱」のような書き込みが
見られるので

自分自身の神経衰弱(おそらくは神経症ではないかと思う)を
なんとかするために
「坐禅」という
「方法(道)」を
選んだのだと思う。
(その動機は
 西田の弟子の
 西谷啓治(1900〜1990年)
 が坐禅を実地に開始した動機と
 同じだと思う。

 西谷啓治は
 哲学者として既に大成していたにもかかわらず
 哲学では癒えない心の中の苦しみを
 なんとかするために
 「坐禅以外には方法がない」
 という窮地で選んだ方法
 だったのだが

 その動機と
 西田が坐禅に「打ち込まざるを得ない」理由は
 ほとんど同じだと思う。)

なぜなら
心の問題で
「論理的に解決すればスッキリする問題」
以外に
「論理では決して癒えない苦悩」
があるからで

この
「論理だけでは、それ故、悟性だけでは
 決して治せない
 心の病や歪みや苦悩」

「復元・回復・治癒する」
には
「哲学以外の方法」

必要
だからです。

しかも
私の経験(1990年11月5日の経験以降)で
経験によって明らかになったことは

哲学とは
「無関係に
 それ故
 「哲学に役立てよう」
 という
 意図無く」
純粋に
「心の治療のみを
 目的として
 行為する」
時にのみ

宗教原理が
宗教原理として
純粋に現象する。
(そういう意味で
 「意識するもの」が
 「全く意図なく、絶対に無の場所」に
 「なり切っている時」
 のみ
 「宗教原理」が
 「宗教原理のまま」
 「意識するもの」と
 「取って代わる」あるいは
 「意識するもの」に「映る」
 という奇跡(通常は決して起きないこと)が起きる。)

むしろ
「何か他の目的に役立てよう」
という
「意図(意志)」

ほんの少しでもあれば
(働けば=意欲されていれば)

宗教の
最も深い原理は
意識に到達しない
だろうからです。

けれども
そのように
他の目的を持つことなく
行為された
宗教的修行
(自律性療法も同じ)

結果
得られた原理

哲学に
役立てることが
できる。

このプロセスは

西田が
『一般者の自覚的体系』(1930年)
で採った
「具体的一般者の中で
 最も我々の意識の事実に近い
 判断的一般者
 から始めた
 最も我々の意識の事実から遠い
 絶対無の場所
 への道程」

『無の自覚的限定』(1932年)
で採った
「今や初めて明らかにされた
 絶対無の場所
 から
 逆に
 具体的一般者
 (判断的一般者<自覚的一般者<叡智的一般者<行為的一般者<表現的一般者)
 を
 「見る」道程」

一致している。
(ここで
 「(判断<自覚<叡智<行為<表現)的一般者」
 つまり
 「判断的一般者」
 「自覚的一般者」
 「叡智的一般者」
 「行為的一般者」
 「表現的一般者」
 は
 「具体的一般者」
 を
 西田が分析して階層化したもので
 「具体的一般者の自己限定」
 を
 「働くもの」
 だと
 西田は言う(旧『西田幾多郎全集』第12巻、12〜13頁)。

 「働くもの」としての「具体的一般者の自己限定」
 が
 「於てある場所」としての「絶対無の場所」
 は
 「意識するもの」だと
 西田は言う(旧『西田幾多郎全集』第12巻、12〜13頁)
 (しかし実際には「見るもの」のことだと思う)。

 だから
 『働くものから見るものへ』は
 『具体的一般者から絶対無の場所へ』を意味している
 と思う。)

つまり
「判断的一般者から絶対無の場所への道程」
(『一般者の自覚的体系』)
では
「絶対無の場所」が
隠されたままで
「論理的に」
進んでいる。
(また、進まなければならない。)

これに対して
「絶対無の場所から
 絶対無の場所の自覚的限定として
 具体的一般者全体を俯瞰する」
(『無の自覚的限定』)
では
「絶対無の場所(永遠の今)」が
既に説明済みの
第一原理
として
自由に用いられる。

だから
『(絶対)無の自覚的(自己)限定』は
『(具体的)一般者の自覚的(自己)体系』以上に
「未経験・未体験なこと」が
「第一原理」とされている
ために
論理(悟性)は
「絶対無の場所」へ
「辿り着く」
あるいは
「絶対無の場所」を
「獲得する」
手段(方法)を
持たない。

こういう場合
哲学では
「宗教原理獲得」
の為には
役に立たない。

「宗教原理獲得」を
可能化してくれるのは
「宗教」であり
「自律性療法」としての「心身医療」
である。

とはいえ
この日記は
西田の思想を
整理する目的の日記
であるから

西田の思想を
西田に即して
纏(まと)めてみよう。

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

西田が
論文「場所」を書いて
学術雑誌『哲学研究』123号に掲載された
直後(大正15(1926)年6月8日)に
西田は京都帝国大学から
ドイツのハイデルベルクに留学中の
務台理作に宛てた書簡の中で
次の様に書いている(旧『西田幾多郎全集』第18巻、303〜304頁)。
(旧漢字、旧仮名遣いは、現代仮名遣いに改めたところもある。
 段落分けは、私の理解の為に、実際とは異なっている。
 ( )内は私の補足)

「其後いかが
 独逸語は大分自由になりしか
 けふ「哲学研究」六月号を御送りした
 此論文では
 まだ
 klar(明瞭)ではないが
 私は
 アリストートルが
 「主語となって述語とならないもの」
 と
 Substanz(実体)
 を
 定義した
 のを
 逆に
 「述語となって主語とならないもの」
 ということによって
 論理的に
 意識を
 定義しよう
 というのです」

書簡(手紙)の文は
まだ続くのだが
ここで区切って
ここまでで明らかなことを
纏(まと)めたい。

この文章から
明らかになることは

(1)西田は
   論文「場所」で
   「意識」を
   「論理的に定義しよう」としたこと

(2)その方法は
   アリストテレス
   「主語となって述語とならないもの」
   と
   「Substanz(実体、ウーシア、真実在)」
   を
   「定義」したのを
   「逆」にして
   「述語となって主語とならないもの」
   ということで
   「意識」を
   「論理的に定義しよう」
   という
   「方法」を意図した
   ということ。

なぜ
こんな方法を
西田は
採ろうとした
のだろうか。

書簡の
続きを
もう少し
見てみよう。

「そして

 主語の
 超越は
 特殊の方向に
 無限に進む

 と同時に

 述語の
 超越は
 無限に
 一般の方向に
 進み
 それが
 無限に一般となった
 無にして
 有を
 包むもの

 絶対に
 映すもの Materie(物、質料)
 にして
 Plotin(プロティノス)の das Eine(一者)
 を
 包むもの
 を
 見よう
 というのです。」

ここで
西田が言おうとしていることを
西田に即して
纏めると

(3)主語の
   超越は
   特殊の方向に
   無限に
   進む

(4)と同時に

(5)述語の
   超越は
   一般の方向に
   無限に
   進む

(6)西田は
   述語の超越が
   一般の方向に
   無限に進んだ
   無にして
   有を
   包むもの
   を
   見よう
   と意図している。

(7)絶対に
   「映すもの」
   (それを西田は Materie と言い換えているので
    この「映すもの」は「質料」だと捉えられている。
    「質料」と捉えているから「場所」と名付けている。
    西田がよく譬(たと)えるのは「鏡」。)
   にして
   プロティノスの一者(das Eine)
   (これは概念的実在の究極者。具体的一般の究極だが
    具体的個物を超越したものと捉えると
    主語となって述語とならないものが、特殊の方向へ無限に超越したもの)
   を
   「包むもの」としての
   「絶対無の場所」
   を
   「見よう」としている。

つまり西田は
「述語となって主語とならないもの」

一般の方向へ無限に超越した
「絶対無の場所」

「絶対無の場所」に於てある「具体的一般者」を
「映す」
と共に
「(プロティノスの)一者」即ち
「具体的個物が特殊の方向に無限に超越したもの」を
「包む」
と捉えている。

この構造は
「絶対無の場所」が
「絶対無の場所」に於てある「具体的一般者」を
「映す」
と同時に
「述語となって主語とならないもの」が
「無限に一般の方向に超越したもの」としての
「絶対無の場所」が
「主語となって述語とならない具体的個物」が
「無限に特殊の方向に超越した一者」を  
「包む」
と捉えている。

だから
「述語となって主語とならないもの」の内在超越者(絶対無の場所)

「主語となって述語とならないもの」の外在超越者(プロティノスの一者)

「包む」
という構造を持つ。

さらに
「絶対無の場所」は
「絶対無の場所」に於てある「具体的一般者」を
「映す」
と共に
「プロティノスの一者」は
「具体的個物」を「流出する」。

   


「執筆(更新)継続中」(ちょっと休憩)
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最終更新
令和2(2020)年12月15日 20時41分
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