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2020年09月12日19:29

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【浩子さん】谷山浩子、45年の音楽人生は世の中の既成概念との対峙

 ついでに面白そうな記事のリンクがあったので。
谷山浩子、45年の音楽人生は世の中の既成概念との対峙
 2017-04-22 10:00 ORICON
 今年、音楽活動45周年を迎えた谷山浩子が、自身“初”となるシングルコレクション『HIROKO TANIYAMA 45th シングルコレクション』を発売する。職業作家を目指した中学生の頃の作品から現在までの楽曲が収録された、これぞ、正真正銘のオールタイムベストである。

◆45年で世の中の価値観や観念は大きく変化

 1972年にアルバム『静かでいいな〜谷山浩子15の世界〜』でデビュー以降、唯一無二の世界観を構築してきた谷山浩子が今年、音楽活動45周年を迎えた。西洋の童話や日本の民話をモチーフにして描かれた楽曲は、谷山がデビューした70年代当時は珍しく、異質なものとして受け止められたかもしれない。それは本人の認めるところでもある。
 「昔は周囲からは少し異端のように見られていたのかもしれません。歌詞のなかに度々出てくる“猫”や“森”などは絵本や童話の世界の道具立てであり、当時は子どものものと考えられていました。それもあって、デビューした当初はよく“大人の女の歌”を歌うように言われましたが、80年代に入って遊佐未森さんがデビューしたり、あらゆるものがあふれ出してきたりで、次第にこうでなければダメと周囲から言われなくなっていき、私自身が普通でいられるようになりました」

 今の大人は漫画も読めばゲームもする。絵本や童話も、今では子どもの頃とは違う視点で楽しめると、大人が“オトナ買い”して空前のブームとなっている。「普通でいられるようになった」という言葉に、この45年で世の中の価値観や観念が大きく変化していることを、改めて思い知らされる。
 「オタクが市民権を持ったのも私にとっては良かったと思っています。私は少し早すぎたオタクみたいなところがあって、中学の頃は同学年の漫画好きな友人たちとよく遊んでいて、みんなで連れ立って新宿にある「コボタン」という漫画喫茶に行っていました。漫画の本がたくさん置いてあり、漫画家さんも来る聖地でした。今だったら、きっと私は同人誌を作っていましたね(笑)」

 多感な中学時代、漫画雑誌『ガロ』を読んで影響を受ける一方で、ビートルズの『アビイ・ロード』に出会い、歌の形式の自由さにすっかり魅了された。現代詩にも傾倒して朗読会に足を運ぶようになり、心理学者・宮城音弥の著作『夢』の魅力にとらわれていった。小室等のファンであったことから、その繋がりで劇作家の別役実の戯曲や童話集に心を奪われた。これらは全て、その後の作家活動に大きな影響を与えていくこととなった。

◆デビューは中学2年。職業作家志望した早熟な子ども時代

 初めて歌を作曲したのは7歳のときだった。NHKの『あなたのメロディー』の楽曲募集に応募したのを契機に、作詞・作曲に目覚めた彼女は、中学一年の頃、当時、歌謡曲で好きだった中村晃子に自身の曲を歌ってほしいと、伝手を頼って担当ディレクターに楽曲を持ち込むようになった。当初から職業作家志望だったというのだから、早熟な子どもだった。
 「当時のキングレコードが中学校の裏門から1〜2分の場所にあったので、時々学校帰りにオープンリールに1〜2曲録音したものを持って行き、聴いてもらっていましたね。その度に一緒にお茶を飲んで話して。中学生で曲を持ち込むなんて珍しかったのでしょう。結局、中村さんには楽曲を歌ってもらえずLPをもらって終わりになりました」

 中学2年のとき、そのディレクターが沖縄から来た子どものバンドを担当することになり、「曲を書いてみないか」と言われて書いた楽曲が、後にフィンガー5となるベイビーブラザーズの「白い天使」のカップリング曲「僕たちの秘密」(70年)だった。
 「メンバーの一番年上が中学生で、私と年齢が近かったので、組み合わせが面白いと思ったのだと思います。その頃から、阿久悠さん、筒美京平さんのような職業作家に憧れていて、そうなれると信じていました。人前で歌うことは苦手だったので、人に自分の歌を歌ってもらって、印税生活を送りたいと思っていましたから(笑)」

 その2年後に、自作自演のアルバム『静かでいいな〜谷山浩子15の世界〜』(72)をキングレコードより発売する。前出のディレクターに「LPを出してみないか」と誘われた。自分で歌うことは気が進まなかったが、LPなら自分の曲が多く世の中に発表できるという思いのほうが勝った。そこから数えて今年が45周年目に当たる。

 晴れてシンガー・ソングライターとしてプロデビューし、そのアルバムがきっかけで、NHKの音楽番組『ステージ101』にレギュラー出演するようになったものの、本人の中ではプロ意識はなかったという。高校では歌の上手い女友達とユニットを組んで、文化祭で楽曲を披露していた。
 「その友人に『ポプコン』(『ヤマハポピュラーソングコンテスト』)のことを教えてもらって、2人で作った曲と私1人で作った曲を送ったところ、私の作った「お早ようございますの帽子屋さん」が本選まで行き、入選したんです。私が参加したのは『第7回ポプコン』で、「つま恋」が本選会の会場になった第1回目でした」

◆人前で歌うことが大の苦手。吹っ切るまでに約10年

 同曲は、75年にポニーキャニオンよりシングル「お早ようございますの帽子屋さん」としてリリースされるが、シンガー・ソングライターとして人前に出て活動する決心がつきかね、しばらくの間、フォークシンガーのみなみらんぼうのバックミュージシャンとして全国を回りながら、職業作家の道を模索した。
 「当時はコンテストも多くて、シンガー・ソングライターになる道はいくらでもあるという状況でしたが、職業作家の道は難しかったですね。それで、自分の歌を世に出すには自分で歌うしかないと思うようになりました。人前に出るのは嫌だったけれど、みなみらんぼうさんのサポートをするうちに次第にステージに上がることに慣れていったことや、ポプコンに出たことで、遅まきながら初めて、世間の評価と自分の評価には大きなギャップがあることに気づいたというのもあります。それまで私の歌は多くの人に受ける歌だと思っていたのですが、周囲の感想の多くは「変わった曲」でした(笑)。また、ヤマハの会長だった川上源一さんが私の曲を買ってくださっていて、「デビューさせなさい」と周囲のスタッフに言ってくださっていたのも嬉しくて、歌は苦手だけれど、歌ってみようかな、と気持ちが動いていきました」

 そんな葛藤の末、本格的な音楽活動に入ったのは、77年3月に発売したシングル「河のほとりに」から。「お早ようございますの帽子屋さん」のリリースから2年が経過していた。しかし、その後も相変わらずステージは苦手だった。いつもコンサート前には「中止にならないかな」と願っていたという。今も毎年コンスタントに30本を超えるライブを行っているアーティストの言葉とはとても思えない。
 「お客さんは私を観に来てくれているのに、『早く終わってほしい』って思っているんじゃないかなんて考えて、どこか心が病んでいたのかもしれません。今思えば、門あさ美さんのように、レコーディングだけやってコンサートは行わないという選択肢もあったとは思いますが、ディレクターにコンサートをやろうと言われると、『嫌だ』とは言い出せませんでした」

 ようやく吹っ切れたのは、87年から始めた出前コンサート『101人コンサート』を行うようになってからだ。ファンの間で語り継がれている、谷山浩子の活動を特徴づける活動の1つであるこの企画は、要望があれば日本全国どこへでも出かけて行きコンサートを行うというもの。新聞広告で告知したところ、全国から300件を超える応募があったという。
 「1ツアーで福島7ヶ所とか、岩手9ヶ所を回るなんてこともありました。ずいぶん細かく回りましたね。100人くらいが入る会場だとお客さんの顔がよく見えるんです。私が緊張するならともかく、お客さんも初めて観るコンサートに緊張する様子が伝わってきて、「お客さんも自分と同じなんだな…」と思えるようになったら楽になりました。それまで、人から自分がどう見られているのか自意識でガチガチになっていたわけですが、今、目の前にいる人を楽しませてあげたい、何かしてあげたい、そう視点を変えるだけで自分の心持ちがかわることにようやく気づいたわけです」
 今でも人前で歌うことは決して得意ではないと語る彼女だが、この経験は大きな転換点になった。

◆スランプ期を脱出するきっかけとなったプロデューサーとの出会い

 45年の音楽活動のなかで、もちろんスランプもあった。人生唯一のスランプ期が訪れたのは、デビューから数年経った頃だ。
「ヤマハには売れているアーティストがたくさんいたこともあって、「売れる歌を書いて」とよく言われました。筒美京平さんに憧れていたくせに、キャッチーでポップな歌を作るのは苦手で、どういう歌を作っていいのかだんだん分からなくなっていったんです。そんな時に、音楽家の橋本一子さんに出会いました。話していてすごく波長が合ったのですぐさまアレンジを依頼したところ、まずは曲を聴きたいと言われて(笑)。それで、10曲くらい入ったデモテープを聴いてもらったら、「良すぎて椅子からズリ落ちた」と褒められて、本当に嬉しかった。私が褒めてほしいと思うまさにその部分を一子さんは褒めてくれて、「これでいいんだ」と思わせてくれました。彼女との出会いで、私の曲作りが変わっていきました」
 この出会いがきっかけで、橋本一子プロデュースによるアルバムを3枚リリース。そのレコーディングで、今も音楽活動を共にする石井AQや斎藤ネコらと出会い、そこからさらにさまざまなミュージシャンへと人脈が広がっていったという。

 4月29日に45周年を記念して、東京国際フォーラムで開催される『谷山浩子コンサート〜デビュー45周年大収穫祭〜』には、石井AQをはじめ、岡崎倫典、斎藤ネコ率いる斎藤ネコカルテットも出演する。今回は、栗コーダーカルテットも出演するため、2大カルテットの共演も見所の1つとなっている。コンサート直前の4月26日には、自身“初”となるシングルコレクション『HIROKO TANIYAMA 45th シングルコレクション』も発売される。72年のデビューシングルから、最新シングルまで45年間で発売したシングルとそのカップリングが全て収録される。これまで発売されたベスト盤に入っていないシングル曲も入るとあって、ファン垂涎のシングルコレクションとなっている。谷山浩子の45年の音楽人生は、世の中の既成概念との対峙であったと捉えれば、ひと味違った谷山浩子の世界が楽しめるのではないだろうか。

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