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2020年07月23日11:59

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『 完本 天気待ち 』

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本家・橋本忍への興味から、黒澤明、三船敏郎関係の本を続けて読むうちに、野上照代の『 完本 天気待ち 』に巡り合った。野上は伊丹万作の弟子で、伊丹の死後、記録係(スクリプター)として黒澤明の現場に長く仕事をしている。橋本が『 複眼の映像 』で書いた伊丹万作や黒澤明のエピソードと重複する部分もあり、面白かった。もともと、『 天気待ち 』は1991年7月から97年までビデオ販売機構の会報「キネマ倶楽部」に連載されていたエッセイだそうで、他紙掲載のエッセイと、書下ろしを加えて文芸春秋社から刊行されたらしい。後に新たに書き下ろした『 もう一度 天気待ち 』を追加、草思社から『 完本 天気待ち 』として刊行されたのが本書である。書き下ろし(初出し)の「 もう一度 天気待ち 」が第一部、再掲の「天気待ち」が第二部になっているのは、そういう事情があるのだろう。私のように初めて読む者は、時系列的に第二部「 天気待ち 」を先に読み、それから第一部「 もう一度天気待ち 」に戻って読む方が混乱なくスムーズに読め、お勧めである。

 本書で私が最も興味を惹かれたのは、黒澤が旧ソヴィエトに招かれて撮った『 デルス・ウザーラ 』の撮影旅行の様子を描いた部分と、『 影武者 』で主役に起用した勝新太郎降板の詳細を明かした部分だ。黒澤が『 デルス・ウザーラ 』を撮るきっかけとなったのは、ハリウッド映画『 トラ・トラ・トラ!』監督降板と、再起をかけて撮った『 どですかでん 』の興行的失敗、それに続く自殺未遂など一連の事件が背景にあるのだが、野上はこのあたりの事情を意外なほど、あっさりと書いている。『 トラ・トラ・トラ!』監督降板の様子も同様に簡単な描写であるものの、ハリウッド側との交渉窓口を務めた青柳哲郎プロデューサーに「 黒澤降板に至る原因 」があったことをほのめかしているのはさすがだと思う。

 さて、『 影武者 』の主役・勝新太郎降板事件である。当時、勝が『 影武者 』に出演すると聞いた時、私は小躍りして喜んだ。勝のイメージは武田信玄に合う。彼が信玄とその影武者を演じるならば、これまでの黒澤映画にはない作品になると同時に、勝の豪快な演技が観られるだろうと確信したからだ。黒澤がたまたまTVで若山富三郎、勝新太郎を見て、信玄と影武者を若山・勝という本当の兄弟が演じたら面白い映画が撮れるだろうと発想し誕生した企画だということも合点がいった。若山富三郎が健康状態を理由に出演を辞退し(実は、若山は黒澤の完璧主義を忌避したという噂もある)、勝新の一人二役が決まってから、黒澤は脚本を勝新起用であて書きし、200枚を超す絵コンテを描いている。久々の映画製作、久々の時代劇ということもあり、黒澤明は乗りに乗っていたと聞く。黒澤ファン、映画ファン、時代劇ファンが一様に期待していたのが、『 影武者 』だった。

 一方の当事者、勝新太郎は黒澤からのオファーに大喜びだったそうだ。黒澤明という偉大な天才監督から声をかけてもらい一緒に仕事ができることを喜び、黒澤から自由に演出してもらえることを喜んでいた。黒澤やカメラマンの宮川一夫らを勝が食事に招待した席でも、勝はとにかく上機嫌で「 俺は楽しくて楽しくてしょうがないんだよ 」と言っていたと野上は書いている。勝新は『 影武者 』出演によって、自分自身の殻を破って新しいステージに進めることを確信し、黒澤と共に大仕事をやり遂げることに夢中になっていたのだろう。しかし、黒澤と勝の関係はリハーサル初日から暗雲が立ち込める。「 出かすも出かさぬも、仕様がなかった 」という短い台詞を勝は毎回、違う台詞、違う言い回しをしたのだ。最初は「 勝くん、それは違うよ 」と笑いながら指摘していた黒澤が、ついには「 勝くん! 違うったら!! 」と怒気を含んだ言い方になっていく。おそらく、勝は自分の演技の引出しが無限にあることを黒澤にアピールし、黒澤にそれを認めてほしかったのではないかと思う。自分の演技で黒澤のインスピレーションが刺激され、自分も黒澤の指導で演技を変更する。お互いが切磋琢磨し、より良いものを作りあげることが自分の使命だと考えていたのだろう。実際、勝新が主演、監督を務める現場ではしばしば、その場の雰囲気で臨機応変に台詞や演技の変更が行われ、台本通りに撮影が進まないことが多々あったようだ。中には、最初の脚本が全く無視され、次々と即興で話ができあがり、結果的にもとの脚本より数段優れた作品に仕上がるので、誰も勝を止めることができなくなった。勝が自分の現場でのやり方を、黒澤の現場にも持ち込もうとしていたことは間違いない。

 反対に、黒澤明は脚本の完成度を高めることが映画のクオリティに直結すると信じているため、現場で思いついて台本を変更するなどありえない。さらに、膨大な数の絵コンテによって黒澤のイメージは完璧に出来上がっており、黒澤組の仕事とは「 黒澤のイメージをいかに具現化していくか 」、そこだけに集中している。映画作りにかける情熱は同じでも、黒澤と勝ではその方向性がまるで異なるものだった。野上は、黒澤と勝は最初から決裂する運命にあったとみていた。そして、リハーサル二日目に決定的な事件が起きる。勝がリハーサル現場にビデオカメラを持ち込み、自分の演技の研究に使いたいと黒澤に申し出たのだ。最初、黒澤は勝が何を言っているのかわからず、黙って勝の言葉を聞いていたが、やがて、勝の真意に気づき、「 断る!」と大声をあげた。「 そんなことされたんじゃ、気が散って仕方ない。あんたは自分の役に集中していれば良いんだ。余計なことを考えるんじゃない 」と勝を怒鳴りつける。おそらく、勝は現場で誰かに大声で叱責されたことなど久しくなかったのだろう。しばらく、茫然と立ち尽くしていたが、「 そんなことより、早くちゃんと支度をして来なさいよ 」と黒澤に言われて、我にかえった勝は憤然として黒澤に背を向けると荒々しくセットを出て行った。「 何を考えているんだ、あいつは 」と腹立たしそうに勝の後姿を見送った黒澤は野上に「 ちょっと、見てきてよ 」と頼む。野上が雨の中、勝の車に向かうと、騒ぎを知った田中友幸プロデューサーが車の外から説得を試みているところだった。野上が現場に戻ると、黒澤はあれこれとスタッフに指示を出していたが、明らかに勝の動向が気にかかっている様子。野上が戻ると、すぐに振り返った。「 田中さんが説得していますが、勝さんは帰るつもりのようです 」 黒澤は「 よし、わかった 」と雨の中、傘もささずに勝のワゴン車へ向かう。

 勝と向き合っていた田中プロデューサーは黒澤に「 なんとか気を取り直してセットに戻っていただけないかと、今、お願いしているんですがね 」と状況を説明。勝は黒澤が来たからと、はい、わかりましたと言えなかったのか、「 俺はこういう役者だから、こんな気分では芝居なんてできない 」と口をとがらせて黒澤に言う。勝はこの時、黒澤が謝らないまでも、とりなしの言葉のひとつや二つあるものと考えていたはずだ。しかし、一瞬の間をおいて、黒澤は信じられないほど冷静な声で言った。「 それじゃ、勝くんには辞めてもらうしかないな 」と言い捨てるや、背中を向けて車から降りて行った。野上の観測では、黒澤はここに至るまでの中で、「 勝は使いにくい。起用は失敗だった 」と黒澤が考えていたと確信している。前日のリハーサルでの一件と、この日のビデオカメラ騒動で黒澤は勝のやり方に辟易としていて、降板させる絶好の機会だったのだと。野上はさらに言う。黒澤は俳優・勝新太郎のことをよく知らなかった。勝の降板劇がどうあっても避けられなかった運命だったとしても、降板劇を招いたのは「 黒澤さんの勉強不足でした 」。

 勝新を切った直後、黒澤は仲代達矢に代役を打診、仲代は「 僕でお役に立てるのでしたら喜んで 」と快諾した。勝降板は大きなニュースであると同時に、多くのファンを落胆させることとなった。仲代が信玄と影武者の二役を演じ、映画『 影武者 』は完成。私も劇場で観たが、やはり、勝新の演じる『 影武者 』を観たかったというのが正直なところだ。仲代も悪くはないものの、演技が繊細過ぎて、重量感や豪放さに欠ける。親指を立てて、「お館さまは?」というシーンではなんだか無理をしているようで、違和感しか覚えなかった。勝新が演じていたら、ふてぶてしさと迫力で思わず唸ったところだろう。もともとの脚本が勝新太郎にあて書きされているのだし、それを言っては仲代が可哀そうなのはわかっているが、仕方がない。
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