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2020年05月11日13:54

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曹操没後1800年祭!

 何かの本に書かれていたのか、
どなたかが「諸葛孔明と卑弥呼」の名前を並べて書いて初めて
彼らが同世代の人間であったことに気付いた。

「卑弥呼」と呼ばれる我が国に存在した女帝が有史上現れた痕跡というのは、
あの!有名な!「魏志倭人伝東夷伝」という書物の中の事である。
「魏志」というのは、中国の後漢代末に登場する「三国志」でお馴染みの、
あの「魏」の事で、
220年に三国志でも主人公の一人である魏王であった「曹操」が没したこの年に
嫡男の曹丕が漢のラストエンペラー・献帝より禅譲を受け建てた王朝である。

従って、「三国志」ではほぼベビーフェイスで正義の味方で主人公同然に扱われていた
劉備玄徳らが建てた「蜀漢」は、
これに沿って考えると漢代末期に自ら皇帝を僭称した「反逆者王朝」である、
と正史からは見る事が出来る。
同じく南方で魏に対抗していた「呉」も、
いわば蛮族が作った王朝と何ら違わないわけで、
「漢」の後継王朝は「魏」なのである。
ところが、この「魏」は
宿将であり重臣であった「司馬懿仲達(〜251)」の末裔である
司馬炎が265年に魏帝より禅譲を受け滅び、
司馬炎は「(西)晋」を建国、
さらに280年に「呉」を滅ぼして華北を統一したため、
「『漢』の次の統一王朝は『晋』」となったのである。

この「魏志」は「三国志」と呼ばれる史書の一部として
この西晋の時代の歴史学者・陳寿が書いたものだと言われているのだが、
陳寿は元々は劉備の作った蜀漢に仕えていて、
その後洛陽に移り、最後は西晋に使えて「三国志」を書いた。
「魏志」を書いたのはこの時である。
つまり、陳寿が亡くなったのが297年であるから
西晋の興った280年から297年の間に書かれたものであることは
推測する範囲ではまず間違いのない事である。
加えて言うのであれば、蜀に仕えていてやたら蜀の事情に詳しく
魏に対抗していたわけであり
「禅譲」(形式的に譲ってもらう形。実質は相手から簒奪する)したとはいえ
西晋が正しい理屈で魏を滅ぼしたとあれば
魏を悪辣に描き、それに滅ぼされた蜀を良く描くのは当然で
その傾向が無きにしも非ず、と言ったところである。

中国が凄いのはこういうところであって、
2000年近く前の書物がなんだかんだで、
こうやってきっかり残っているのである。
西洋の場合だと、
石などに刻み込まれて居たり伝承で残ったりしているものが殆どであるが、
文書で残されている事実は、
仮に嘘八百を書き連ねていたとしても凄い事なのである。

閑話休題、その「魏志」に
「『倭』」いう国から女王の使いが来た、女王の名は『卑弥呼』と言った」と書いてあるのである。
卑弥呼からの使者が来た時期からは、
書いた時は時間は若干経過しているようで、
当時は「邪馬台国」と呼ばれるその国は狗奴国と争っていた、と書いてある。
また「238年に使者を送り、247年に卑弥呼は死んで国が乱れた」とも書いてある。
諸葛孔明が活躍した時期というのが181年から234年と言うから、
魏国に使者を送るほんの4年前まではご活躍されていたのである。

以上の観点から、
「卑弥呼と諸葛孔明は生きている時期は少なからずカブっていた」とほぼ断定できる。
これは歴史を横串で通して見る観点があればすぐ気付くのであるが、
それぞれの国の通史でしか見ていないと難しい事でもあり、実に興味深い事である。

ところで
最近、曹操没後1800年を記念して、
あの川本喜八郎の「人形劇三国志」の再放送がCS放送で始まってたので
楽しみにして見ているのだが。。。
同じ年に関羽も亡くなっているし、来年は張飛没後1800年だ。
2023年は劉備没後1800年。
これから毎年のようにイベントでもやるのかい?


軍師・諸葛孔明が渋谷のクラブに降り立った!! パリピとして転生した天才が巻き起こすエモい天下統一劇
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=140&from=diary&id=6075130
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