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2020年04月30日06:15

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日本最初の欧米書『ターヘル・アナトミア』を翻訳出版した蘭方医たちの光と影(3):名利に生きた玄白と蘭学に専心して清貧に生きた良沢

 前野良沢の主導で進めた『ターヘル・アナトミア』の翻訳は、結局、良沢抜きで『解体新書』として公刊された。

◎玄白は『解体新書』で超有名に
 ほとんど翻訳上の貢献の無かった杉田玄白が、強引に公刊に踏み切ったのは、むろん自らの名利を得たいという野心があっただろう。ただ間違った漢方の人体理解で、低迷する日本の医学界に革新の火を灯したいという理想は評価できる。
 『解体新書』は、当初は漢方医などから黙殺されたが、後に次第に真価が認められるようになった。それと共に、玄白の願ったようには「主著者」である玄白は有名になった。蘭方医として斯界で最高の声価を得たのである。優秀な弟子と養子も得て、年に600両も稼ぐほどの富裕医ともなる。

◎良沢は市井に埋もれた
 それに対して、名を出すことを辞退した前野良沢は、その後、医師というよりも蘭学に傾注し、医学書以外の蘭書も翻訳し(しかしやはり出版しようとはしなかった)、当代一の蘭学者になるが、弟子も取らず、塾も開かなかったので、一般には無名のままで、貧困に喘いだ。晩年は廃屋同然の一間きりの茅屋に逼塞する。
 2人とも80歳以上と当時としては異例の長寿だったが(写真)、良沢は市井に逼塞していたので、死去後の通夜にも葬儀にも参列者はほとんどいなかった。その時、玄白はまだ存命だったが、患家に往診に出かけ、葬儀にも参列していない。
 良沢より長く生きた玄白の死の後の通夜、葬儀は賑やかだった。江戸市中のみならず遠方からも多くの医家や患家が集まり、香煙が屋敷に満ちたという。

◎「フルヘッヘンド」の翻訳エピソードは虚偽
 僕が子どもの頃に読んだ『ターヘル・アナトミア』の4人の訳読作業で、以下のような記述があったことを鮮明に覚えている。
 鼻の部分を翻訳するのに、語学力不足の4人は記述が理解できず、数日も難行し、良沢が持っていた仏蘭辞書に庭の掃除で落葉などが集まってフルヘッヘンドする、という部分を手がかりに、やっとこれが「堆(うずたか)し」という意味で、鼻は顔の中で隆起したもの、という意味だと気がつく、というエピソードである。
 これは、実は今は医学史家から否定されている。実際、『ターヘル・アナトミア』の鼻の部分に「フルヘッヘンド」という単語はないからだ。

◎『蘭学事始』執筆で原典に当たって確かめもしなかった玄白、それとも創作?
 これは、玄白が83歳の高齢になってから表した有名な『蘭学事始』(写真)から引いた逸話で、4人の難行がよく分かるので、繰り返して孫引きされてきた経緯がある。ところが事実は、前述のように『ターヘル・アナトミア』には「フルヘッヘンド」という単語は存在しなかった。
 玄白は『蘭学事始』を書く時に、思い違いして、そう記述したのだったという。40数年前のことからの思い違いなのだが、これこそ玄白が蘭学から完全に遠ざかっていた証拠である。彼は、『蘭学事始』を書く時、最も感動的な「鼻」の項目の解明のことすら、原著の『ターヘル・アナトミア』に当たって確かめようとしなかったのだ。
 あるいは話を面白くするための創作、でっち上げだったのかもしれない。思い違い説は玄白の性善説に立つが、僕は『解体新書』公刊の経緯から読み取れる玄白のパーソナリティーからむしろ自己の偉業をことさらに潤色するための創作説を採る。
 だからこの事実を知った時、杉田玄白に対する僕のイメージが地に落ちたのである。

◎良沢と寛政の三奇人、高山彦九郎との奇妙な交流
 弟子も取らず、誰にも看取られず、寂しく世を去った孤高の前野良沢だが、晩年、なぜか寛政の三奇人の1人とされた高山彦九郎と親しく交わったのは、奇妙だった。
(高山彦九郎については、今年2月19日付日記:「早すぎた尊皇思想家、高山彦九郎と天明の大飢饉(後編):執拗な幕府の追及の前に非業の自刃」、及び20年2月16日付日記:「早すぎた尊皇思想家、高山彦九郎と天明の大飢饉(前編):東北旅行で見た、聞いた惨状をルポ」を参照)
 彦九郎は、江戸滞在中は良沢の家をしばしば訪れ、宿泊した。お互い、妥協を知らない一途の性格の持ち主であり、そこが2人に共鳴しあうものがあったのだろう。

◎ロシアにまで名が聞こえていた桂川甫周、中川淳庵
 ちなみに『ターヘル・アナトミア」翻訳に参加した4人の中で最も若かった桂川甫周(かつらがわ・ほしゅう)と玄白に『ターヘル・アナトミア』の入手を取り持った中川淳庵は、その後も蘭学の研究を進め、師事したスウェーデンの医学者カール・ツンベルクから、中川淳庵とともに外科術を学んだ。2人の優秀さに感動したツンベルクは、自著『日本紀行』に甫周と淳庵を紹介し、2人は当時として異例にも海外にも知られる日本人科学者となった。
 漂流し、ロシア人に救われ、後に故郷帰還を請願するためにはるばる首都ペチェルブールクまで赴いた大黒屋光太夫は、ロシア船で送還された翌年寛政5(1793)年、将軍家斉に謁見をし、その折り「ロシアでは日本のことを知っているか」との質問に、光太夫は「日本人としては、桂川甫周様、中川淳庵様という方の名前を聞きました」と答えている。この時の書記役が甫周だった。甫周は、その時、何とも面はゆい心持ちだったという。
 この桂川甫周が、後に光太夫から聞き書きした地誌『北槎聞略』(写真)を編んだ人である。
 鎖国下にもかかわらず、日本人の中に遠く帝政ロシアにまで名を知られた科学者がいたことは記憶に留めておいていいだろう。
(完)

 なお前2回との間が開いたので、前2回の日付を以下に掲載しておきます。ご参照してください。
・4月26日付日記:「日本最初の欧米書『ターヘル・アナトミア』を翻訳出版した蘭方医たちの光と影(2):苦難の末に訳了成るも『解体新書』出版前に良沢は訳者名を強く辞退」
・4月25日付日記:「日本最初の欧米書『ターヘル・アナトミア』を翻訳出版した蘭方医たちの光と影(1):オランダ語学力ゼロで翻訳目指す」
注 容量制限をオーバーしているため、読者の皆様方にまことに申し訳ありませんが、本日記に写真を掲載できません。
 写真をご覧になりたい方は、お手数ですが、https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202004300000/をクリックし、楽天ブログに飛んでいただければ、写真を見ることができます。

昨年の今日の日記:「樺太紀行(33);近隣の黄色く美しいコメツブツメクサ群落とブッセ湖湖畔のワイルドフラワーの群落」
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