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2020年04月13日06:04

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「北から来た黒船」ロシアのプチャーチンと日露和親条約締結に結び付けた克己の人、川路聖謨(後編):忠勤励んだ幕府に殉じて自決

 前編で述べた川路聖謨(下の写真の上)の最大の功績は、「北から来た黒船」のロシアの全権エフィーミィ・プチャーチン(下の写真の下)との日露和親条約締結交渉である(前編は4月5日付日記:「『北から来た黒船』ロシアのプチャーチンと日露和親条約締結に結び付けた克己の人、川路聖謨(前編):軽輩身分から勘定奉行筆頭へ」)。

◎ロシア全権プチャーチンと対峙
 この交渉前に、1度、プチャーチンは旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来航している(1853年8月=嘉永6年7月)。ペリーに遅れること1カ月半後のことだった。川路は、その応接係として長崎に急いだ。ところがクリミア戦争でイギリスと戦争状態に入ったので、様子見に上海に出港、そして5カ月後に長崎に舞い戻る。
 そして川路と首席全権の筒井政憲らと初めて会談を行う(絵)。筒井は、旗本身分で御家人の川路より上席だったから、いちおう筒井が対ロ交渉の最高責任者だが一歩退いて、ほとんど川路がプチャーチンとの交渉を担った。

◎樺太の領有権で論争
 プチャーチンがロシア皇帝から命じられていたのは、通商交渉と北の領土問題の解決だった。通商交渉は、アメリカとも結んでいないので、難航の末、下田と函館を開港し、領事を置くことで折り合った。
 領土問題も難航した。ロシア側は、択捉島まで自国領と主張し、樺太は全島の主権を主張した。
 川路は、松前藩が国後島に「場所」を開いたり、19世紀初めに幕府が択捉会所を設置したりしたこれまでの歴史的経緯を基に、千島は択捉島とウルップ島で境界を引くことを主張し、プチャーチンと折り合った。
 また樺太は、当時のオランダの新しい地図書に樺太の国境を北緯50度の地としているところから、川路はこれを国境線とすべきだと考えていた。そのうえ間宮林蔵らの探検で当時はロシア人が居住していなかったことなど、南半部の日本領を強く訴えた。これに対し、プチャーチンは今はロシア人が植民し、樺太中南部に炭鉱まで開いていることなどを例示し、ロシア領を主張した。

◎南樺太の領有を認めさせる
 そうしたやり取りの結果、樺太は従来どおり国境を定めず、日露混住とする妥協が成った。しかしここで川路ら日本全権は粘り、付随条件として嘉永5(1852)年まで日本人とアイヌが居住した樺太の地を日本領とすることをプチャーチンに認めさせた。かくして日露和親条約が締結された。
 当時の樺太は、南部には樺太アイヌと和人以外、住んでいなかったので、約半世紀後の日露戦争で日本に割譲された南樺太を事実上、幕末の段階でロシア側に日本領と認めさせたのである。しかし川路らのこの努力は、後に明治新政府による明治8(1875)年の樺太・千島交換条約で樺太全島をロシア領に譲ることで無にされてしまった。
 たとえ明治新政府が富国強兵に向けて内政に注力し、北の国境線を安定化させたい強い動機があったとしても、樺太開発・探検に尽くした先人の労苦を無にすまいとした川路の骨を削るほどの努力を思うと、売国的行為と判断せざるを得ない。

◎交渉中、大地震と大津波でロシア艦被災
 こうしたタフなやり取りで、プチャーチンと川路は、互いに友情を感じ合うほど肝胆相照らした。
 また交渉の途中に起こった天変地異で、ロシアと日本に親善が深まった。安政東海地震に伴う大津波が下田を襲い、街はほぼ壊滅したが、ロシア使節と水兵たちの乗ったディアナ号も船体を大きく損傷、水兵に死者も出た。自身に被害があったにもかかわらず、副官のコンスタンチン・ポシェットは医師を伴って上陸し、被災傷病者の手当ての協力を申し出ている。この厚意に日本側は深く感服している。

◎日本が積極協力し、「ヘダ」号新造
 一方でその後、修理のために西伊豆の戸田(へだ)に回航されたディアナ号は、大風に襲われて沈没する。水兵たち500人は漁民たちが総出の作業で救出されるが、村民たちは遭難水兵を温かく手当てした。
 ディアナ号に乗っていた司祭マホフは、村人たちが水兵たちに「米、酒、蜜柑、魚、卵を持参した者もいた。何人かの日本人は目の前で上着を脱ぎ、私たちの仲間のすっかり冷え込んで震えている水兵たちに与えたのは驚くべきことであった」とその感動ぶりを記している。
 プチャーチンたちは、日本側の協力を受け、船大工と共に新船建造にとりかかり、洋式船は協力に謝意を込めて「ヘダ」号と命名した(絵)。

◎井伊直弼の大老就任で左遷
 困難な交渉をやり遂げた川路は、その後、幕末の激動に流されていく。将軍後継問題で一橋慶喜の擁立に与したため、井伊直弼の大老就任後、左遷の憂き目も見る。
 そのずっと以前、交遊のあった渡辺崋山らが遭難した「蛮社の獄」に連座しそうになり、左遷で免れたことがあったが、生涯、2度目の逆境期であった。
 晩年の川路は、中風で左半身不随に見舞われた。
 時に、忠勤を励んだ幕府が崩壊の瀬戸際にあった。彼はままならぬ身で、大政奉還やその後の王政復古の大号令、さらに鳥羽伏見の戦いと徳川慶喜の江戸への逃げ帰りなどを耳にしていた。

◎江戸城明け渡しの翌日に自決、幕府に殉じた最期
 そして倒幕軍がついに江戸に迫り、ついに江戸城明け渡しが決まると、その翌日、病床で護身用のピストルを放って自死した。武士道を何より尊んだ川路が、切腹をしなかったのは(試みたが果たせなかった)左半身不随では腹を切っても死ねないことを悟り、ピストル自殺に切り替えたのだ。

注 容量制限をオーバーしているため、読者の皆様方にまことに申し訳ありませんが、本日記に写真を掲載できません。
 写真をご覧になりたい方は、お手数ですが、https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202004130000/をクリックし、楽天ブログに飛んでいただければ、写真を見ることができます。

昨年の今日の日記:「北アフリカのスーダンでクーデター、残忍な戦争犯罪人バシル追放も、軍内の政権たらい回しか」

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