某休日。
窓の向こうはポカポカ陽気。
しかし自分は、あまり陽気でない。
「フォードvsフェラーリでも観に行くか」
・・・なんて、思ってみる。
しかし、フォードはおろか、三輪車を漕ぐエネルギーも、
今日の己の心身には、無い様だ。
ダルい。もしかすると、かなりムナC。
こういう時は、
映画館で二時間集中する事も苦行となる。
喫茶で新書を開いても、数頁も読み進められないであろう。
テレビをつけてみる。
「変わり映えのしない雛壇タレントたち」という、
変わりの映えしない言葉が当て嵌まる映像が流れる。
ちょっと若者のあいだで話題、という事になっている若手も混ぜつつ、
でも仕切っているのも中心席に座っているのも、
中高年層に長年お馴染みのタレントばかり。
テレビはとっくに、黄金時代の役割を終えている。
テレビから最先端のサムシングが発信される事はないであろう。
しかし、「テレビにはまだ需要がある」とも思う。
例えば、入院中にテレビカード差し込んで、ベッドで眺めるテレビ。
心身のエネルギーが少なくても、ボーッと、世間の気配には繋がっていられる。
ネットと向き合う感覚とは異なり、向き合わなくて良い。
なにも入力せず、何も選択せず、
ただつけてみたチャンネルを、ボーッと眺める、
もしくは目を閉じて、音だけ耳穴に流しておく。
それで、良い。
そして今の自分自身も、そんなテレビの様な存在であるのかも知れない。
手垢にまみれてて、新たな価値の発信もなくツマラナイけど、
お馴染みの雛壇タレントでどうにかもたせてるけど、
「ただいてくれるだけで良い」と思われる時もある。
ウザい時は、消えてて欲しいと望まれる。
ベッドに心身を横たえ、
テレビに背を向け、音だけ聞きながら微睡んだ。
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