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2020年01月06日23:57

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難波宮1

難波宮の歴史は大きく前期と後期に分かれている。

大化元年(645年)に発生した乙巳の変によって皇極天皇が譲位した。変わって皇祖母尊(すめみおやのみこと)の称号が与えられている。この際に皇極天皇は当初、息子である中大兄皇子に譲位しようとしたが中大兄皇子は辞退して皇極帝の弟・軽皇子を推薦した。軽皇子は三度断った後に古人大兄皇子(ふるひとのおおえみこ。舒明天皇の第一皇子)を推薦したが、古人大兄皇子は辞退して出家してしまった。そのため軽皇子が孝徳天皇として即位して中大兄皇子が皇太子となった。難波宮はこの時に飛鳥板蓋宮から難波長柄豊崎宮に遷都した事に始まる。宮殿は白雉3年(652年)に完成した。大化の改新と呼ばれる一連の政治改革は難波で行われている。建造物は全て掘立柱建物であり、草葺屋根で作られていた。「日本書紀」には「その宮殿の状、殫(ことごとく)に諭(い)ふべからず)」と記されており、言葉で言い尽くせないとされたほどの偉容をほこる物であり、日本で初めて本格的に建てられた宮殿であった。

しかし実質的に改革を推進していた中大兄皇子と孝徳帝は不仲であり、中大兄皇子は孝徳帝に対して宮殿完成の翌年、飛鳥に戻る事を求めたが、孝徳帝はこれを退けた。すると中大兄皇子は皇祖母尊と帝の皇后・間人皇女(はしひとのひめみこ。中大兄皇子の妹)、弟の大海皇子を連れて飛鳥に戻ってしまい、さらに臣下の大半もこれに伴って去ってしまう。これを恨んだ孝徳帝は山崎(京都府乙訓郡)の地に新宮殿の造営を始めたが気を病んでしまい白雉5年(654年)に59歳で崩御してしまった。

飛鳥へ遷った間人皇女に対して孝徳帝が宛てた歌がある。
「金木着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか」

間人皇女が中大兄皇子と共に飛鳥に遷った理由は不明であるが、「駒」は間人の比喩であり、古代の「見る」は恋愛を意味している事から中大兄と間人の関係を指摘する説もある。

孝徳帝の崩御により高祖母尊が飛鳥板蓋宮で重祚(ちょうそ。人生2度目の即位)し斉明天皇元年(655年)に斉明天皇となる。天武天皇12年(683年)、天武天皇が複都制の詔を発して飛鳥と難波を都と定めたが朱鳥元年(686年)正月、火災によって難波宮は全焼し廃れてしまった。

神亀3年(726年)、聖武天皇は藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営を命じた。中国の技法である礎石建や瓦葺屋根で造られた宮殿は平城京の副都とされたが規模は以前よりもひと周り小規模化している。後に聖武天皇は天平12年(740年)に恭仁京に遷都したが、天平16年(744年)に難波京への遷都を考え始め、行幸目的で現地視察を行った後に正式な遷都の詔を発した。しかし同時に近江国の紫香楽宮への遷都も視野に入れて行幸しており、難波宮には元正上皇と左大臣・橘諸兄が残されている。そして最終的には天平17年(745年)に紫香楽宮への遷都が正式に発表されるのであった。

そのためこの短期間の難波京への遷都は聖武天皇と元正上皇の政治的対立や紫香楽宮の都城設備が完成するまでの一時的な仮居であったともされている。延暦3年(784年)、桓武天皇が長岡京への遷都を行い大極殿などの建造物は移築されて難波京は廃止された。
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