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2019年11月05日22:45

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天神神社(伊久良河宮)

城崎から帰った翌日、不識庵さんを岐阜に迎えて私の地元を巡った。穂積駅での下車であったためまずは周辺の史跡から。

今年のGWに諏訪へ行った際、諏訪大社を始めとする民間信仰に興味を持ち岐阜ではいかなる信仰があったのか気になって調べた所、身近な所に元伊勢の史跡があった。元伊勢とは伊勢神宮が創建される以前、倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神の遷座地を求めて全国行脚していた際に短期間ながら滞在していた場所である。

「倭姫命世記」「延暦儀式帳」「日本書紀」によれば垂仁天皇10年(紀元前20年)、倭姫命が天照大御神の御霊代を祀る地を探し淡海(近江)国の坂田宮から美濃国へ降って伊久良河(いくらがわ)(居倉)の地に辿り着いて4年を過ごした。その間に伊久良河宮の宮殿が造られ、本殿の右にある御船代石(みふなしろいし。神の宿る石)に天照大御神の神輿を安置していたと伝わる。かつては御船代石の前にも拝殿があった事が古絵図に描かれている。倭姫命はこの地を出た後、生津から2艘の木船で川を下って尾張国神戸(一宮市)に辿り着き中島宮を形成する。

社殿では社殿建立以前、一帯が禁足地とされ御船代石を憑代(よりしろ)に祭祀が行われていたとされ周囲からは神獣文鏡6面や硬玉(こうぎょく。ヒスイ輝石。翡翠には硬石(ジェダイト)と軟玉(ネフライト)がある)製を始めとする30個余りの勾玉が出土しており、古代の祭祀遺跡であったと考えられている。これは神殿に神を祀る神社形式よりも前の磐座(いわくら。古神道における岩信仰)である。

江戸時代には旗本・青木氏の崇敬を受けており元禄年間(1688年〜1704年)に現在の本殿が造替(ぞうだい)されている。明治以前は「伊久良河宮 天神宮」「天津神神社」と呼ばれていたが明治6年(1873年)に「天神神社」に改称し郷社に列して川崎地区と三日市場の総社となった。本殿が市指定文化財、また伊久良河宮として市指定史跡に指定されている。文化庁の全国遺跡地図にも祭祀跡として登録され、現在でも伊勢神宮からの使いが参拝に来ている。

伊勢神宮の分霊として八咫鏡(やたのかががみ)を御神体とし、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)と神皇産霊尊(かみむすびのみこと)を祭神としている。「むすび」は万物を育てる尊い神を示すとする。この他、御船代石の北に神明神社、西に倭姫命神社が祀られている。



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