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2019年09月27日23:51

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「1960年代」「ハリウッド的殺人事件」「その日常」の仮想体験 『ワンス・アポン・タイム・イン・ハリウッド』

「物語に不要な描写の“必要”」*1
がタランティーノの「映画的構造特徴」だが、
本作もそれは健在だ。

そのため映画は、リック・ダルトン(レオナルド・ディカプリオ)と、
ダルトンのスタントマンで相棒のクリフ・ブース(ブラット・ピット)
の「日常」をすべて拾い上げる。*2

スタジオの行き帰り、愛犬へのエサやり、
マカロニを炒め、体調不良で咳き込み、
LAの街に明りが灯り夜が訪れる――。

その光景によって――もちろん監督の映画作法を把握している前提はあるが――
観客はいつしか「60年代末期のハリウッド」と「ある殺人事件」
の仮想体験へと飲み込まれる。*3

本作の鑑賞には、
シャロン・テートおよびマンソン・ファミリーがおこした殺害事件の知識が必要だ。*4
でないと結末と監督の幼稚――ゆえ真っ当で純粋な怒りの裁きが理解できない。

作品は、シャロン事件までリックとクリフの「日常」ですすむ。
だが、カルトの共同体が登場したころから、映画に突然、
異常性と緊張感がほとばしりはじめる。*5

なんの特徴もない乾いた土の上に建つバラック。
建物から続々と姿を現す女達。彼女らは闖入者であるリックを見つめ続ける。
こういう空気の作り方が監督の上手さだ。

「LAの日常」を描く仮想体験映画はここから一気に「創作」へと舵を切る。*6
監督のお決りの暴力とゴア描写の中で、歴史は改変され“物語”になるだろう。
そのとき、この仮想体験は完全にフィクションと同期するのだ。


※1 本作の場合、60年代末期のハリウッドの風景や生活、現象がリックとクリフの「日常」や「人生の決定」を描写するために必要だったのだ。すくなくとも、その文化や文物の部分――リアリティへかかわる事柄を「軽微」「軽薄」にあつかうようなら、監督は、そもそも本作を撮影する意味を見い出せなかったのかもしれない。

※2 その「日常」が鑑賞に耐え得る理由は「ひとかたまり」「ひとかたまり」のシーンとカットがうつくしいからだ。

※3 「仮想体験」の意味において本作は非物語的だ。ただ、本文でふれているように最後は完全にフィクションと化す。そのため監督は(わざわざ)「1部」と「2部」のパートわけで構成しているのかもしれない。
 
※4 https://ja.wikipedia.org/?curid=343413

※5 この理由は簡単だ。観客はクリフが迷い込む土地がマンソンのカルト共同体だと把握する。一方、映画の中のクリフはその知識がない。映画の登場人物と観客の知識のギャップのために、事情を知る観客をハラハラさせるわけだ。

※6 なにしろ歴史を改変する。

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