家出がその癖となった銀一郎は、あいも変わらずその中学生のころ家出を繰り返していた。
折檻の絶えない義父を嫌って、その大阪を飛び出し、祖母のいる広島に来たのだが、大阪弁が抜けず友達ができず、また小学校もろくに通わなかった銀一郎にとって中学の授業はついていけるわけもなく退屈なばかりか拷問だった。
当時広島の中学校のほとんどは荒れに荒れていて子供らの一部は非行グループ化し、教師も手をつけかねていた。
銀一郎の通う瀬戸内海の中学校もそうであり、田舎にいけばいくほどその度合いはひどかったように思う。
銀一郎の場合は、100円ゲームというのを教室でやらされた。
不良グループのIという生徒に
「おう、銀一郎、ゲームしようで。」
というので、こんな銀一郎でも友達でいてくれるのかとついうれしくてついていったら、学校のひとけのない場所につれていかれた。
そのIは2000円ほどの100円硬貨を持っていた。
「・・おい、銀一郎、勘で昭和何年の100円玉か当ててみい」
とIは一枚一枚100円玉を裏に手にもって、銀一郎に問うていうのだが、そんなもの当たるわけはない。
20枚ぐらいの100円玉の中、当てたものは2−3枚であとの16枚は外れてしまった。
「・・おい、お前、1600円の負けじゃけえの。来月までに1600円もってこいよ。」
とIは言うのだ。
「・・・んな馬鹿な話あるけえ。」
と言ってそのIを無視していたらそれから壮絶ないじめが始まった。
Iをはじめとした不良グループは手向かいする生徒には何でもした。
銀一郎の場合はまず教室においていた学生服の背中をカッターナイフで幾重にも切られていた。
それからカバンがなくなっていたり、教科書がなくなっていたり、日々なにがしかのいやがらせを受けるようになった。
こうなれば学校は苦痛でしかないし、学校に行く理由がみつからなかった。
幼少時すごした大阪ではもともと浮浪児をしていた銀一郎である、
「なんで学校へいかんのんね」
と事情を知らない祖母は怒るばかりであるが、そんな祖母ににもあきあきして、いつからか銀一郎は家に帰らず家出を繰り返す子供になっていた。
大阪の十三ではよく橋の下や河川敷の段ボールでよく寝ていた銀一郎である。
都会と田舎の違いではあるが、やろうと思えばこの瀬戸内の島でも生きていけるだろう、そう思って家を出た。
季節にして寒い風が吹き始める11月の頃。
だがしかし自然の山中での一人暮らしは厳しいものがあった。
大阪は毛布一つでも寝られる場所があったし、何より繁華街の裏通りにいけば捨ててある残飯がいくらでもあって食うには困らなかった。
一方瀬戸内の山は甘くなかった。
まず寒いのである。
山中を放浪しいしい、手頃な古い農具小屋を見つけそこをねぐらとしたのであるが、とにかく寒かった。
写真はイメージです
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