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2019年05月16日22:18

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上原城2

同年、甲斐国では武田晴信が父の信虎を駿河国に追放するクーデターを起こして家督を継承。諏訪氏と敵対する高遠頼継と同盟して領国拡大のため諏訪郡への侵攻を開始した。さらにかつて敵対した過去を持つ諏訪下社の一味もこれに加担していた。一説に追放した海野棟綱が上野国の関東管領・上杉憲政に助けを求め、これを受けて憲政が佐久郡に侵攻した際に頼重が武田氏、村上氏に独断で和睦して所領を分割した事に晴信が激怒して同盟破棄を行ったとも言われている。
義理の兄である晴信の突然な攻撃に頼重は驚愕しつつも兵の動員を図った。しかし外征や自然災害などが相次いた諏訪では充分な兵力を集める事が出来ず、城下町の各所で戦闘が行われたが諏訪軍は敗北。頼重は上原城に自ら火を放って撤退し、支城である桑原城に籠城した。無骨物であった頼重は家臣の夜襲案を受け入れず、最後まで抵抗して戦死する事を望んでいた。上原城よりも防御の薄い桑原城に逃げた理由としては再起を図るためここから北へ逃げようとした、とも考えられている。

しかし桑原城も武田軍に包囲され、降伏を受け入れた頼重は大祝家を継いでいた弟の頼高と共に甲斐の東光寺に護送されて切腹を求められた。享年26。辞世の句は

「おのづから 枯れ果てにけり 草の葉の 主あらばこそ 又も結ばめ」

守矢頼真は自らが記した「神使御頭之日記」に「頼重公の運も尽きたようだ」と書き記している。

これにより諏訪惣領家は滅亡し大祝家は頼重の叔父にあたる満隣(みつちか)が継承して諏訪氏の血を繋いでいく事となる。なお、同年には頼重と禰々の間に嫡男の寅王丸が誕生したが戦後に甲斐国へ移住し寅王丸は千代宮丸と改名した。諏訪領は宮川を境に東が武田領、西を高遠領とする事が決められたものの、大祝家の遠縁でもある高遠頼継はすぐさま諏訪郡の全領土の確保に動いて出兵し、上原城を攻撃して諏訪上社・下社を占領した。

これに対して晴信は千代宮丸を担いで諏訪一族を味方にし、諏訪宮川橋の戦いで高遠軍を撃破して勝利。これによって諏訪郡は完全に武田氏の支配下となった。千代宮丸は僧籍に入れられて長岌(ちょうきゅう)を名乗った。その後については天文15年(1546年)、大叔父・諏訪満隆の反乱に合わせて駿河へ落ち延びようとしたが露見して殺されたと伝わる一方、天文22年(1553年)、越後国の上杉謙信の元へ亡命したともあり諸説ある。

晴信は譜代家老であった板垣信方を諏訪郡代として上原城主に任命し、武田氏の重要拠点の1つとなった。信方はこの諏訪・佐久侵攻で先方隊を率いており、入場前から両郡の所領宛を行っていた。しかし信方は天文17年(1548年)、村上義清を相手にした上田原の戦いで戦死を遂げたため信方弟の室住虎登(もろずみとらとお)が城主を継いだが、すぐに長坂虎房が城主として派遣された。上田原の戦いから2ヶ月後、武田軍弱しと侮った信濃国守護の小笠原長時が諏訪郡へ侵攻したため晴信はこれを迎え撃つため上原城へ入り、塩尻峠(現在の勝弦峠)に布陣する小笠原軍を夜更けに奇襲して勝利を得た。以後、諏訪の地にはしばらく平穏が訪れる事となる。

天文18年(1549年)、虎房は新たに高島城(茶臼山城)を築城して移り諏訪郡統治の新拠点とした。上原城はその後も武田氏の城として機能していたとされるが天正10年(1582年)、織田信長・徳川家康による甲州征伐で武田氏が滅亡し廃城となった。城下町はその後も門前町として残されていたが文禄元年(1592年)に諏訪へ入封した日野根高吉によって高島城(茶臼山城とは別)が築城されて新たな城下町が開かれると門前町の町宿も移転したためかつての名残は消滅した。

城郭としては山頂の本丸を中心に小規模な曲輪が周囲に築かれ、縦掘りや堀切などで防御がなされていた。物見石と呼ばれる巨石(物見「岩」じゃん)や本丸周辺の急斜面に目が引かれる。少し下った所には板垣平と呼ばれる平地があり、現在は畑などに使われていた。ここは上原城の居館で板垣信方もここに屋敷を構えていたという。
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