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2019年05月12日11:06

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051 鷹の風呂 1/

鷹の風呂
W・B・イエーツ「クフーリンの死」より

これは戯曲連作「風土と存在」第五十一番目の試みである





時 初夏
所 このしろ池
人 崔梨花





杣途を塞ぐ塞(サエ)の神。チョゴリ・朴下駄・紅パラソル。

ちょっとちょっとちょっとあんたら。ここなあ、行き止まりやで。チゲしょった褓負商(ポプサン)の足腰でなけりゃあ通んのだって容易でねえよ? 可也の大崩れを魔所やいうてな、生身の人間が通るのなら、ここから先は鳥竿(ソツテ)に乗って、アリランコゲルルノモカプシダ、それでよければおいでんしゃい。それ、沓は確かか、杖は突いたか、「寒かろ、腹も減ったろう」、したが腹がくちけりゃ聞こえん話、見えん景色もあろうぞよ。ナルルポリゴカシヌンニム、十里も行かずに何を見た。ほい、アリアリランスリスリランアラリガナンネエエエエエエ、アーリランフンフンフンアラリガナンネエエ。

セッサルチ、チョノサリ、オッサリ、ヂョノ、テェヂョノ。

林(女で)「お庭の隅に目をもつて碁盤格子の染帯を、骨牌(かるた)結びや年配(としばい)も二十二三四五六七、押せく振つて出ませい、在所故郷はいづくにて、小姓回しの一通り、お江戸の勝手覚えてか、供先(ともさき)乗り打ち下馬先(げばさき)に、大名方の目印も知るやいかに」とありければ、源(荒ぶり)「せがれ九州薩摩者。推参ながら古(いにしへ)は、二つ刀もさそふ水叶(かな)はぬ濡れに身を浸し、広い薩摩を狭められ、近い朝鮮琉球より、遠い東(あづま)は日本の地命(いのち)な種に油の涙、つかみ奉公いたしても鯉しい奴めにま一度と、江戸に三年都に二年公家武家方のお小姓髪、ゆひたては持ちませず六十余州の大名様、お馬印(むまじるし)鑓印お駕籠押(おさ)への紋印、空に覚えてまかりあり。御奉公は縁の物、これを取得(とりえ)に召し置かれば常江戸脇城(わきじろ)国脇まで、申せば事も長いこと、まづ一国名(な)に高き、城主様方あらまし」と口拍子にて、連ねけり。
御簾の内外(うちそと)ざはくくようく言うたり申したり、さてもくとやゝ暫し手を叩いてぞ誉めらるゝ。林「やれ幸ひの奉公人、この者に極(きは)めよ」と四十平(よそへい)を召し出されおとな殿へ申して、取替へわたし吉日なれば今日中に請判(うけはん)極(きは)め、今宵からお屋敷に泊らせよ、薩摩者とあるからはさの字をのけて津摩蔵(つまぞう)とお付けなさる、あれへ立つて休みませい」

あたしゃね、「クフーリンの死」ていう芝居を演出してくれって言われたんすよ。ええ、これはクフーリンの生と死をテーマにしたシリーズ物の最後の篇でしてね、あたしにお鉢が回ってきたのは叔母の巫堂(ムーダン)、崔寅愛(チェ・イネ)の憑依芸がどうせ遺伝してるだろうとか、時代遅れで古くさいロマンチックなのがうってつけだろうとか、そんな理由でしょうが、ま、好きにやってくれって言われたんで演出メモってやつを書きつけてみましたわ。えー、お客さんは五人か十人くらい、それより多いといかにも出来合いの芝居って感じになってきて場の雰囲気にそぐいませんのでな、どうか携帯電話や時計のアラームなど音の出る機器はあらかじめ気にせず電源からそのままおいて、普通に通話してもらっても構いませんし、(ああ飲食もあり、タバコは山火事にならない程度、)写真撮影なんかもう大歓迎ですよ、なんならキャスしてくれても大丈夫です。あたしゃね、演劇界のためなんかにはやってませんからねえ、時代が堕落しとりますからな、さよう、ミルトンの仮面劇「コーマス」初演の警察沙汰みたいなことになって大いに結構! 一六三三年、ウェールズとイングランド境域、ブリッジウォーター伯爵の居城、ラドロー城での上演ですな! こんな田舎くんだりまでわざわざ出てくるお客様方には生かじりの演劇サロンの人なんかおりゃしませんが、大きな声では言えやせんがあの連中ときたら――あ、いやなに、続けますが、なんでしたかな。そうそう、イエーツといえば日本じゃ鷹の井戸。百ぺん上演があっても全部鷹の井戸。辟易しますがこれには事情がありましてな、かのエドワード・フィッツジェラルド卿が英国で紹介したお能の隅田川ね、あれを受けていたく感じたイエーツにはたまたま伊藤道郎という日本のダンサーが友人におりまして、千田是也の兄です、震災で朝鮮人と間違われたあの千田是也ですな。その伊藤のために書き下ろしたのが鷹の井戸だったと。しかし妙なこともあるもんですが、あの井戸のエピソードね、どうやらアルスター神話集をガサガサ読んでもどこにも出て来はせんのですわ。つまり創作なんですかね? 民話収集家イエーツが、肝心の代表作では民話を飛び越して創作しちゃったってことでオーケイ? マァありふれた鳥の巣あさりの習俗を、あれだけの芝居にまとめたことはえらいっちゃァえらい。それにまあ民話もそりゃ、創作ではありますしなあ。

例えば角館の町に於て「矢野のお婆さんは魔法を使い爐灰に、胡瓜種をふせ、それに芽を出し花を咲かせ、実をならした」ということが伝えられている。その写真がハンマートン氏編「人類の風俗と習慣」という本に載っている。その婆さんというのは、長瀬光直の娘にして矢野長左衞門の妻であり、確かに秋田切支丹信者であった。角館町に於ける唯一の古切支丹であったのである。しかるにその魔法なるものは、当時の人々が神経過敏のあまり、キリシタンなら手品師のやる、瓜を育てる魔法などやり兼ねないだろうと、つい評判の尾となり頭(かしら)となってしまったものではないかと思う。物集高見(もずめたかみ)の広(こう)文庫に「切支丹の幻術」と題し、続々群書類従から引用してある「切支丹宗門来実朝記五六七」なる次の話の如きも、よほど眉唾、よほど割引物と思う。

中川村、現角館の小勝田に太平山という高いとんがった山がある。その腰から西長野村の北沢部落へ越すことが出来るが、その越え口に塞神(さえのかみ)の小祠(ほこら)がある。むかしキリシタン・バテレンの法を得たいと思う者はそこへ参籠した。百日でも二百日でも籠って、若しその念が通ずると、季節でもない時でも海の魚である?が生きたまま、その壇の上に載っている。そしてそれを食うと完全にキリシタンの秘法を、会得すると言われた。ある時、その人が角館の町の遊郭で豪遊していたが、皆がそれと知って「旦那はん、何か魔法を見せてよ」とせがんだ。すると始めのうちは取合わなかったが、女達があまり頼むので、そんならばと何やら呪文を唱えると、その場に居並んだ女達が、人目も憚らず、裾前を広げ「ほと」も露わに、バタバタと仰向けに倒れたのであった。しかも不思議な事に、御本人達は醜態を演じていることなど気附かず、他の女達の有様がよく見えるのであった。そうして御互いに笑うので、遂に皆が醜態を演じていることがわかった。そうなると、急に恥かしくなって来て、とうとうその呪文を解いてくれる様にと願ったのであった。そこで女衆は「旦那はん、今の様に恥かしいことなどさせないで、もっと上品な魔法を」と注文したら、「よしよし、そんならここへ箸を二三把持って来い」と言って、それを運ばせた。何すると思ったらその箸を、一本ずつ抜いては継ぐ、抜いては継ぐ。それがだんだん長くなって家の中から出て、ずんずん空の方へ延びて行って遂に雲の中まで入ってしまった。それからどうするかと見ていると、その箸へつかまるや否やそのままズルスルと、猿よりも速く登って行って見るみるその姿が小さくなり、遂に雲間に消えてしまった。暫く経ってから又、雲表にポッチリ黒点が見えたと思うと、それが次第に大きくなり、すうっと目の前にその男が下りて来たので、皆も呆然としてしまったと言う。

To-day you are as stupid as a fish,
No, worse, worse, being less lively and as dumb.

この人音(ひとおと)に源五兵衛「あらはれては身の落度、お暇申す」と駆け出づる。小まん押し止め、「覚悟あってするからはそなたに難儀かけはせぬ、ハテたかが後家の身いたづら者といはるゝまで、思案がある待つてたも」と言へども源「いやく御屋敷はどうもあれ、生国薩摩は人改めつよく我らは今にお尋ね者、この事国へ聞えては召し返されて罪科(ざいくわ)にあひ、一門の恥おまんが嘆き。塀を乗り越え夜のうちに、大津までも」といふところへ林はたしなむ長刀(なががたな)、裾端折(すそばしを)つてまくりあげ「奴殿(やつこどの)動(いご)くまい」と、縁端(えんばな)に踊り出でたるは狂気とならでは見えざりけり。林(まだ女で)「ホヽちと合点が参るまい。これ小まん、我こそ肥州熊本笹野三五兵衛、我二歳の時親三五左衛門は、武州の遊び所にて石子久弥(きうや)といふ者に討たれしを、幼少なれば夢にも知らず四(し)歳で母におくれ、一門の介抱にて十四(じゆうし)の年跡目を継ぎお手前と縁を組み、迎へ取るべき用意の最中(さなか)毎日門に貼紙して、狂歌俳諧さまぐの落書(らくしよ)を立て家中(かちゆう)指さし嘲弄する、いかなる故と聞き合すれば親の敵(かたき)があると言ふ、弓矢八幡知らぬことは力なし、敵(かたき)石子を討ち取りこの恥を清めずば、本国へ帰るまいと譜代の下人に心を合せ、頼みし寺と内談しめ、三五兵衛病死と披露し、?(このしろ)といふ魚をもつて火葬を欺き、十六歳で国を出で髪を伸ばし女となり、十九(じゆうく)歳の九月より今年二十三歳まで、五年の春秋付き添ひ見るに顔も知らぬ夫のため、下尼(さげあま)の身となりまざく側にゐるとも知らず、朝夕(てうせき)我に香花(かうはな)取り精進回向嘆きの様子、嬉しいやら不便(ふびん)なやら部屋に入つては泣き暮し、名乗つて聞かせて嬉しがる顔見たいとは思うたが、いやく本望達するまでと、胸に包んで数々は船車(ふねくるま)にもあまるべし、(荒ぶり)日頃にも似ず今夜しもあの下郎を閨(ねや)へ入れ、見苦しきざまは何事ぞ。あれ天下の下種(げす)めを、三五兵衛が女敵(めがたき)といふも口惜し、いはんや大事の敵を討つまでは無念も恥も堪(こら)へうと、心誓文(こころぜいもん)立てたれども凡心の習ひ、目の前の怒り止み難くかう破つて出るからは、討ちともなうても討たねばならぬ、一本させばうぬめも男、サア抜け相手にしてくれん、エヽうぬら風情と太刀打ちは武運に尽きた。口惜しい」と、歯がみをなして嘆きしは道理せまつてあはれなり。

矢張り角館の町にあった話というが、中町のM家ともまた、勝楽町のSという青物商の店であったとも言う。ある日、その店へ塩だか青物だかを買うつもりで、年若い女が来た。ところが手代の一人が、店の者達へ言うには、「今向こうから若い女が籠を下げて来るだろう。皆で見て居れ。浅い川でなく、深い川を踊らして見せるから」と、しかし皆は「何寝言吹く」と取合わなかったが、その手代が何か呪文を唱えると、今まで普通に歩いて来た女が立ち止まったと思うと、急に下駄を脱いで、如何にも水をこいでいる様な風をする。そうして、見ているうちに、「大水だ、大水だ!」と叫びながら、着物の裾を捲くり始めて、とうとう臍まで出してしまった。店の者は見兼ねて「いい加減にして止めたらいいだろう」と忠告したら、得意になって「矢張り俺の言った通りであったろう」と言いながらその法を解いた。すると、今まで深みにはまった様に、着物を捲くっていた女が急に目の前が渇いた街道になったので、真赤になって急いで着物を下ろし、狐にでも騙された者の様に、パチクリして居たという。これと全く同じ話が、横手町にも伝えられているそうである。先に檜木内の南岳の条で述べた、仙台のキリシタンで斬刑の時、一本の御幣に化してしまったという藤田丹後に就いても、矢張り同じ様に水を見せた話が伝えられている。

A secret moment that the holy shades
That dance upon the desolate mountain know,
And not a living man, and when it comes
The water has scarse plashed before it is gone.

まあね、水は見えますからね。ここへ来る街道でだって見えましたでしょ、逃げ水。逃げ水に一歩を踏み出すかどうかが人生の分かれ道でさあね。蛤が殖えすぎて浜が混み合ってくるとね――ちょうどあすこの浜ですよ、あんたがたにも見えましょうが――蛤って舌のほかに足も出すんです。粘液の足を。それは何メートルにも伸びるネバネバで、波打ち際で汐がサッと退く時、そのネバネバに引っ張られて、貝のくせにものすごいスピードで移動する。驚いて駆けて追いついて、拾いあげてみても何の変哲のない貝でしょう? 呆然と上げた顔でアッと目が見開かれるわけです。浜の先に、見たことのない向こう岸と、見たことのない楼閣が見える。目ごしごし、いや、確かに見える。まごまごしてると逆さにすら見える。ニューッとのびてろくろ首のようにも見える。あァあれは蛤の足だ。そうか、この貝はあの竜宮に遣わされ、いま役目を終えて波間に還る神官なのだ。南無八代竜王、ほむべきかな。司馬遷の史記に書かれてる蜃気楼の謂われです。さすが礼記(らいき)月令にあるように、蛤は冬の雀、さてまたウムギヒメの秘法。

叔母の崔寅愛(チェ・イネ)が行方不明になったのは茨城の守谷というところでした。土堤から利根の河原に下りた方に今じゃ放棄された被差別部落の空き家があって、憑依芸を見込んだ柳先生という、なんですか、昭和の怪物みたいな裏社会の爺さんに請われて、口寄せで誰かを呼び出そうという京畿道降神巫の秘法をね、披露しに行って、それぎり。遺骸なんかは上がりません。うまいこと片付けられたんだろうと思うけど、でもあたし人伝てに、その柳という人の話を聞いたんです。「子供のようなことを聞くと思うかしらんが…この老人に一つだけ気がかりなことがある…。つばめじゃ。そうじゃ。わしの家の軒先に毎年つばめがきて巣をかける。もう二十年来のことじゃ。それが去年、五月に来て巣をかけ、どういうわけか七月になるといなくなってしもうた。生まれたばかりの卵をおいてじゃ。そして今年はついに来なかった…。わしの家の近所でもそうじゃ。これはどうしてかな?」

トンヘ トンヘ ヘリョン シンニム
ソヘ ソヘ チジャン シンニム
ムガンジオク イ プンジン シサン
クボ サルピシサ クボ サルピシサ オシュィ!
スルスリ ネリソソ、スルスリ…
〔ひがしうみ ひがしうみ おひさんの かみさん
 にしうみ にしうみ じぞうさんの かみさん
 無間地獄 この 風塵世界
 よじれ生きて よじれ生きて きたさ!
 ちょろちょろ こぼれて ちょろちょろ…〕

それはほんとうに消えたんだと。曇り空に左の掌が浮かんで見えて、障子に文字が浮かび出て、飆(びよう)・飆・飆…。なに言ってるんでしょうね…。のちに母の事件は舞台化されて、事件から五年経った二〇〇七年の夏でした、埼玉の宮代町というところで上演されました。宮代にはふたつの鎮守があり、どちらの社にも「逃げてきた姫」の由来譚があります。姫宮神社には、桓武天皇の孫娘・宮目姫があづまに旅する途中道に迷い、この地の紅葉の美しさに感じたあまり癪を起こして死に、旅の僧が菩提を弔って供養したところに社ができたと。もう一方の身代神社には、「ある武将が奥州に落ち延びる際、その姫が追っ手に捕らえられそうになった。その時、当地の人が?(このしろ)という魚を焼いた。この匂いは人を焼いた臭気に似ているため、村人は追っ手に対して「姫は死んだ」と言って、その命を救った。姫は感謝して?にちなんで身の代神社を祀ったと語られている」。あるいは義経伝説と習合して「静御前が奥州へ落ち延びた義経を慕って今の身代神社の辺りまで来たら、追っ手が来たので土地の人は静御前をかくまった。追っ手の役人には「そのお方はこの地で亡くなりました。今焼いたところです」と説明すると役人は納得して帰っていき、御前は無事奥州へ向かった。土地の人にどうやったかというと、「魚のコノシロを焼いたのです。コノシロを焼くと人の焼ける匂いがするのです」と答えた。そこで役人は信じてしまったのであるという」ということになってます。そしてまた、「身代神社の池は利根川の洪水で出来たといわれ、魚が多く、釣りをすると非常によく釣れる。しかし釣りを終えて持ち帰ろうとすると、池の中から「オイテケ、オイテケ」という声がする。恐ろしくなって、誰でも置いてきてしまう。もし、持ち帰って食べると、零落して村にいられなくなるといい伝えられ、その魚は誰も食べない」とも。







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