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2019年03月10日07:49

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「雲上雲下」/朝井まかて

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装画:山本真澄

読みながら、日頃 読んでいる作品とは大分 異質だなと感じる。
大人に読ませる日本昔話?
違和感の元は脳内映像が巧く流れない事?
ずっとそれを感じつつ読了。

章ノ一 小さき者たち
 草どんと、子狐/団子地蔵/粒や/亀の身上がり/猫寺
章ノ二 勇の者たち
 通り過ぎる者/お花/湖へ/小太郎
章ノ三 物語の果て
 草どんと、子狐と山姥/神々の庭/空の下

「わしは枯れることのできぬ草である。」
“彼”はそう語る。
「見目は樹木のごとく丈は二丈(6m)を超え、
 根許はおそらく一抱え
 幾千もの葉は常世の緑を保ちながら花を咲かせず、種を吐かず、
 実もつけぬ。 ゆえに誰も、有難がらぬ。」

そんな“彼”が居る場所は
「深い山中にぽっかりと、袋の口を開いたかのような草原で、
 森とそこをつなぐのは大樫の洞のみ」
そして、
「ここから先に道はない。 崖しかない。」
というのだが、どうも私にはそのフレーズを脳内で映像化できない。
ん? え〜と?… と、その“場面”を思い浮かべようとしながら、
浮かばないまま読み続けるので、どうしても話の流れが
澱み、滞る。

そこに子狐が登場し、
巨大な叢である彼に、勝手に「草どん」と呼びかけ、
「おはなし」を引き出す。
という設定なのだが、
どうもその“場面”が浮かばない事につまづいて、
結局、最後まで引きずり…

語られる「おはなし」は、
多少の変容はあるものの、
「傘地蔵」「田螺息子」「猿の生肝」「猫檀家」
そして、軸となる「龍の子 太郎」
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「章ノ三 物語の果て」で、「草どん」は実は? 子狐は実は?が
明かされていく。

最終的に、背後にあるのは<現代>
人々が長い間紡いできた「おはなし」が
近年、親から子へと伝わっていかなくなり、
おとぎ話世界は未曽有の危機を迎える!
それは神話世界=神々の世界の存在も危うくし…
というのだが。

ん〜〜 内容そのものが
好んで読むタイプの作品ではない上に、
草どんが居る場所が映像として把握できないので
物語を読み進めるのがスムーズに行かない。
とても美しい挿絵が表紙と裏表紙に使われているのだ。
430ページほどに詰まった文章に、何カットか入れてくれれば、
どれほど読み易くなったか?
確かに、挿絵は
読む者の脳内世界を限定してしまうというマイナス面があるが、
名作に名挿絵は付きもの。
元々、日本農業新聞に「福耳草」として連載された作品を
加筆、修正し改題したものとか、
連載時、きっと挿絵があったことだろう。
残念だな〜 その何点かを載せて欲しかった。

しかし… 自分がこんなに、
文章を脳内変換した映像に頼って本を読んでいるとは?!
ちょっとビックリ!
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