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2018年12月09日14:58

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所郁太郎贈従四位頌徳記念碑

所郁太郎(ところいくたろう)は幕末期の名医である。天保9年(1838年)、美濃国赤坂の醸造家、矢橋亦一の子として生まれるが後に美濃国大野郡の医者、所伊織の養子となって家業を継いだ。加納藩医、青木松軒や京の安藤桂洲に学び同じ美濃出身で漢詩人の梁川星巌と親交を結んでいる。

万延元年(1860年)、大坂の適塾に入って緒方洪庵に学んだ後に京都で医者を開業。近くに長州藩邸があり、郁太郎の腕を見込んで治療を講う長州藩士が多かったため深い関わりを持った。そして同時に尊王思想を説いてもいた。

文久3年(1863年)、桂小五郎(木戸孝允)と出会った事から長州藩邸内の医院総督となるが八月十八日の政変に伴う七卿落ちに随従して長州に下向した。藩主、毛利敬親に拝謁し新参ながら遊撃軍参謀兼医院総長に任命された。元治元年(1864年)、長州藩領の吉敷郡で開業したが、同年に発生した禁門の変(蛤御門の変)に指揮官として参戦し敗北。長州に落ち延びた。

江戸幕府は長州藩の過激な行動の数々を鎮圧するために第一次長州征伐を発動。この時、正義派(尊王攘夷派)であった井上多聞(薫)は俗論党(佐幕派)であった刺客に襲撃されて切り付けられ重傷を負った。郁太郎が井上の屋敷に着いた時、長野昌英と日野宗春という2人の医者がいたものの重傷のために手を付けれる状態ではなかった。さらに突然の事だったため郁太郎は手術道具を持っていなかったが、数日前から屋敷に出入りしていた畳職人の畳針を借りて傷口を縫合。2人の補助を受けながら約50針に及ぶ大手術を成功させている。

また、藩内では事態の急変を憂慮し高杉晋作が俗論党の打倒を決意し郁太郎は遊撃隊参謀として伊藤俊輔(博文)の力士隊と共に高杉の奇兵隊に加勢。元治2年(1866年)には俗論党の大軍を撃破する事に成功して藩論統一を成し遂げた。しかしこれを受けて幕府が第二次長州征伐を発動したため郁太郎率いる遊撃軍は吉敷村に布陣する。高杉を助けながら各地を転戦していたが陣中で腸チフスに感染してしまい、王政復古を見る事なく吉敷村の陣営で死去。享年28

明治31年(1898年)、井上は恩人である郁太郎の顕彰に尽力し結果、遺功を湛えられて従四位を追贈された。そして井上の遺志に基づいて昭和12年(1937年)に井上侯爵家が所家の旧家に記念碑を建立し今に至っている。
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