キリンビールのラベルに出てくる麒麟は、想像上の動物である。ところが今では首の長いジラフを、キリンと呼ばれる。
それがいつ頃から、ジラフをキリン(麒麟)と呼ぶようになったかを、最近、ある記事で知った。
◎鄭和の南海遠征の帰途、明の永楽帝に贈られる
それによると、15世紀、明時代に7回行われた鄭和の「南海遠征」の産物だったという。
鄭和の艦隊は、この南海遠征で、インドはもとより、遠く東アフリカまで達している。
ほぼ同じ頃の1415年、大航海時代の始まりの頃、ポルトガルは地中海に面した北アフリカの港湾都市セウタを攻略した。
その中で、アフリカ東海岸からジラフがベンガルに渡ったようだ。ベンガル王は、明の永楽帝からの贈り物の返礼の朝貢として、ジラフを船に乗せ、明に送った。
長い船旅で生き残ったジラフを、永楽帝はたいへん喜び、宮廷のおべっか使いどもは、聖王(永楽帝のことである)の治世に現れるという神獣・麒麟と見なし、永楽帝を寿ぐ詩や絵画「麒麟沈度頌」を作らせた(写真は「麒麟沈度頌」)。
ここから、ジラフは麒麟=キリンと同等視されるようになったようだ。
◎ウィキペディアの記載にはライオンやヒョウと共に、とあるが
ただジラフと永楽帝との出会いを書いたウィキペディアの記述は、前記とは少し異なる。
それによると、「明の鄭和による南海遠征により、分遣隊が到達したアフリカ東岸諸国から実在動物のキリンをはじめ、ライオン・ヒョウ・ダチョウ・シマウマ・サイなどを帰国時の1419年に運び、永楽帝に献上した。永楽帝はとくにキリンを気に入り、伝説上の動物『麒麟』に姿が似ていたこと……」とある。
この記述によると、鄭和の分遣隊が、直接、東アフリカ海岸からライオンやヒョウなどの猛獣と共に明まで運んだことになる。
◎帆船時代、餌の肉を調達できずに肉食獣をどうやって運んだのか
しかしこの記載は、にわかに信じがたい。そもそもここに挙げられた動物たちを集めるだけでも大変だったはずだし、ライオンやヒョウといった猛獣を運べる技術もなかったと思われるからだ。
むろんライオンとヒョウは、肉食獣である。
ジラフ、ダチョウ、シマウマ、サイという草食獣と異なり、航海中、肉食獣には餌として肉を与え続けねばならない。現代と違って、風頼みの帆船時代である。どれくらいの航海日程がかかったか計り知れない。その間に、肉食獣に与える肉を海の上でどうやって調達したのか。
◎肉食獣を帆船に乗せて長途航海は不可能
その点、草食獣は干し草を与え続ければ何とか生かして運べる。
肉食獣を集めるのも運ぶのも、昔は想像以上に困難だったのだ。だから江戸時代の8代将軍の吉宗の時代、ゾウが江戸まで歩いて来たことはあるが、ライオンが来たことはない。
ウィキペディアの筆者は、肉食獣を運ぶのが困難、いや不可能だったことに思い至らなかったようだ。このようにウィキの記事は、丸呑みは危険だ。
上の写真は、南部アフリカ、ボツワナのチョベ国立公園で観たジラフの群れ。
注 容量制限をオーバーしているため、読者の皆様方にまことに申し訳ありませんが、本日記に写真を掲載できません。
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昨年の今日の日記:「南部アフリカ、ジンバブエの独裁者ムガベがついに失脚;ムガベと後継者に見るアフリカ的なドロドロ」
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