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2018年06月25日22:26

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武道随感  合同稽古!

 実は大会が終わった後、仕事から帰ってから毎日のように薙刀を振っていた。「ように」ではなく、本当に毎日かもしれない。それというのも、どこをどう変えて、どういうところを目指すか、が見えたからである。

 前の県大会で判ったことは長野の薙刀の『柔らかさ』と、自分の薙刀の『荒さ』だ。これを「柔らかく、正しい」ものに替えていかなければいけない。では何をどうするのか? 答えは既に判っていた。それは『後ろ手を使う』ということなのだ。

 奥さんの試合を見てはっきり判ったことだが、「前の手」で振ってる薙刀は『固く』見える。力感が強くて鈍い。それに対して「後ろ手」で振ってる薙刀は柔らかく、鋭い。使い手が実際に力を入れているか否か、が問題なのではない。そう見える、し、それでは一向に薙刀として評価されないということが問題なのだ。

 後ろ手を利かすためには、前の手を非常に緩くしてなければならない。そしてその緩さが生み出す、薙刀の柄を「通わせる」感覚が必要なのだ。それを独りで振ってみて判ったことだが、後ろ手を使うことで連続技の「自在さ」というのが生まれるのがよく判った。

 薙刀は長い。簡単に言えばシーソーのような状態で、後ろ手を上げると切っ先が下がる、つまり「斬る」形になる。対象物を『斬る』ために、逆に手を『上げる』のである。この原理を利用して、例えば『側面→脛』とかの連続技を打つ場合、柄の側を下げる→上げるという動作で切っ先を働かせることができる。

 このような連続技を柄を使わないでやる場合、長い物全体を両手で上→下と動かすことになり、重量がモロに腕にかかって筋肉が必要であり、かつ到底速い技にはならない。けど、これが後ろ手を利かすと素早い転換ができるようになるのである。

 そんな風にして薙刀を振って遊んでいると、返し技に応用できることに気付いた。面を受け払っての脛とか、脛に対してそれを巻き取るように払ってから脛、とか、そういう手の内の細かい操作が必要な使い方が、自分の中でモノになってきた。必要なのは後ろ手の使い方と、前の手の「通わせ」の意識である。

 大会の前の練習の中で、長野に来てからT先生に注意された意味がよく判った。T先生は、面打ちの時も「前の手で打ってるんですね」と言ったし、側面の時に「後ろ手が利いてないんですね」と言ってくれた。しかし、その時はその注意の意味が真の意味で判ってなかった。が、その意味がやっと体感覚として判り、『認識』できるようになったのである。

 そうやって後ろ手の使いを意識してた折、大会後初の練習でT先生の指導のなかから発見があった。子どもたちに面打ちの指導をしてる時に、「薙刀を胸の前で一回立てるくらいのつもりで」と言うのである。そこから半身になりつつ、面を打つ。この「前に立てる」という意識は、僕が全く持ってなかった感覚だった。

 胸の前に薙刀を立てて、そこから踏み出して面を打つ。という動作が意味するのは、その踏み出す時に、後ろ手を利かせないと十分な面が打てない、ということなのだ。僕は「大きく面を打って」と言われたのを意識して、最初から振り下ろす時に、後ろ手の肘を曲げた状態で下していた。

 そうではなく、薙刀が立つくらいのところから、後ろ手を上げる(つまりこの段階で肘を曲げる)ようにして切り下す。そうすると、振り下ろしの途中で、切っ先が「走る」のである。これが『斬り』だ。

 実はそういう風に切っ先を走らせる技術があるのはしっていた。英信流の居合なんかは、非常に意識的に切っ先を走らせる切り下しを演武で披露していて、「ああ、こういう振り方もあるのか」とか思ったのだった。いや、そうじゃなくて、薙刀もそう振るべきなのである。それが判った。

 そしてT先生にう前に注意された「手の幅が短くて、面の形が半身をきって決まってない」という指摘にも、思い当たる言葉があった。T先生は「肩甲骨を合わせるように」切り下す、と言っていたのである。

 剣道でも合気道でも、どちらかというと肩は「前に」降ろす(と思う)。肩甲骨を合わせるということは、肩をむしろ「後ろに」降ろすのだ。これが馴染みのない動きなので、僕はその言葉を聞いても重視してなかった。けど、その意味が判ったのである。

 薙刀は半身を綺麗に切ることで『斬り』を入れる。肩甲骨を合わせると、少し胸を張ったような形になる。けどこれは「胸を張る」のが主眼なのではない。「胸を張る」のを意識して、非常に居ついている人を見たのもこの教えをまともに受け止めなかった理由なのだけれども、肩甲骨を合わせるというのは、『腕とくに肘に力を入れない』ことで、初めてできる形なのだ。

 肘を張って胸を張る、のではなく、肘を柔らかに体に付ける感じで、肩甲骨を合わせる。そうすると、切り下しの時の拳がちょうど鼠蹊部に当たる。そし十分に半身が斬れているので、前の腕が余ったりせずに綺麗な面の形が取れる。これかあ! と、薙刀を始めて、初めて『面打ち』の形に得心がいった。

 大会が終わって毎日素振りしてる僕を見て、奥さんも一緒に振るようになった。そして二人で仕掛け応じの型や、上級の全日の型なども稽古するようになった。特に全日の型は、今までほとんど練習することがなかったので、型の手順からうろ覚えである。それを二人で思い出しながら、とにかく型が体に入るまで毎日やってみた。

 そんな中から、目指す戦い方のスタイルが見えて来た。薙刀を自在に操れるようになると、はっきり言ってそんなに動く必要はないのだということが判った。そもそもだが、判定で負けるのは体外、『低い腰構えで、やたらと動き回る』方なのだ。それに対して『泰然自若と構えてる』方が、大体判定で勝つ。

 本来、一か八かみたいな打突ではなく、狙いすました一撃を入れるのが薙刀の「一本」である。闇雲に戦うのではなく、「正しい姿勢を崩さず」格上感を出してる方が評価されるのだ。というか、薙刀を自在に操るようになると、そんなやたらと動き回るもんじゃない、ということが身に染みて判ってきた。

 今までの僕は敏捷さを活かして運動量で戦ってきた。だがそれは下級者の戦い方なのだ。薙刀を自在に操れるなら、そういう戦い方をしないのである。運藤量で相手を抜くのではなく、「相手の隙を突く」とか、「相手に気付かれずに入る」技術がより高いレベルの動き方なのだ。

 それが判ると、今まで完全に自分が『脚力を使って』動いてるのが判った。いや、若い選手は皆そうだ。脚力を使って、勢いよく飛び込んだりして戦ってる。僕も無論そういう動き方をしていたのだが、そうじゃない、のだ。ステップは使わない。『継ぎ足』や『送り足』等の、薙刀の補法で動くのである。

 基本の打ち返しの終わりに、ふとステップで飛ぶようにして後退してる自分を自覚する。無意識に、『脚力』で動いているのだ。トン、トンと軽く動いている。けど、それじゃ駄目なのだ。サッサッと静かに素早く動く。それが薙刀の動き方なのだ。

 今までの戦闘スタイルを変える。色々混ざった武術家の動きから、薙刀上段者の動きに変える、のである。それが目指すスタイルだとはっきり判り、意識的にそういう動きを練習していた。

 そんな中、合同稽古のお知らせがきた。なんでも長野では有名なM先生がいらっしゃるので、教えをいただきましょう、という話なのであった。で、土日の二日間やるのだけど、奥さんが初日、僕が二日目で交代して出ることにした。丸一日の練習に、娘を二日間も突き合わせるわけにはいかないからである。

 初日は非常に基本をみっちろやり、防具の練習も相当にやったというのが奥さんの話だった。そしてM先生は、「合理的に理合を説明し、型も防具にも熱心な先生」というのが奥さんの評だった。

 実際に二日目に教わってみると、確かにその通りだった。しかし一日目と違い、二日目は上段者が多いということで、より上段者、そして指導者向けを意識した練習内容になっており、とても勉強になった。

 その数々の教えの中で、僕は自分の見出した方向性が間違ってないとの確信を得た。「前の手を通わせ、後ろ手を利かす」ことの重要性もよく説明され、自分の練習が間違ってなかったと安堵した。また例えば練習の中で、「相手を引き出して打たせる」という練習をやった。次の段階は「引き出しながらも、隙があったら打つ」という練習である。

 けど「自分が打つ」ということを意識すると、打つことに夢中になって相手を「引き出す」のがおろそかになる。相手を十分に引き出すとは、相手を十分に「観察する」ことであって、相手を引き出すという「格上」役割の方は、相手をまず「落ち着いて」観察することが必要なのだ、という練習であった。

 その中で間合いを調整したり、打てない時は無理に打たず、それを落ち着いて見極める、ということが課題なのである。そしてM先生の話では、「無我夢中で戦っても、一本は取れません」と断言されたのである。

 無我夢中で戦うのではなく、落ち着いて相手を見極めて必要な時に動く。それが一本なのである。無我夢中で打ったものが当たっても、そんなのは一本じゃない、というのである。そして「薙刀を自在に操れれば、運動力がなくて体格が劣っている私でも、若い人や体格筋力の優れた人と十分に戦えるのです」と自負を持って仰ったのである。

 実際、相手の隙を見極めて打つ、という見本の動きは、そうすることが判っていても、僕らでは十分にできないことであり、先生はそれをなんなくこなしているのだった。大体、M先生は『先生』という人には珍しく、「防具試合」の実際の条件に極めて熱心な指導をされた。こんな経験は東京では、比較的若かったG先生の指導でしかなかったことだった。

 そして地稽古をまず、女性二人とやってみた。で、新しいスタイルを試してみた。まだ馴染んでなくて「見過ぎて」しまったりすることもあったが、非常に新しい感触を得た。

 相手がうかつに動いたり、隙を見せたら打つ、という意識で攻める。つまり、出ばな技や返し技が「できる」という前提なのだ。相手が打って来たら返し技で応じる、という意識を持ちつつ『切っ先』で攻める。この『切っ先で攻める』感覚は、今回初めて得た感触だった。相手が切っ先の攻めに堪えきれずに打ってきたところを、うまく返し技で取り、綺麗な一本の感触を得た。

 そして前の大会でできなかったN君と、大会の時に判定負けをしたF君と地稽古できた。N君は体格が大きいが、非常に柔らかい薙刀の扱いをするのが印象的な青年だった。やってみると、やはり非常に上手い。けど、それをじっくり見極める戦いをして、なんとか互角に戦えた。中では僕の「速い」側面がヒットして、彼が「ナイス面です」という場面があったが、僕は半身が微妙だったので「いや、決まってないな」と言っておいた。

 F君とやった時は、「遅い動き」側面を決めた。これは確実に一本取れた打ちだった。彼は早い技には反応できる、ので、八相に構えてからギリギリまで打つのを我慢する。彼は後退して打をかわそうとする。けどこちらは我慢してそこを追い込んで打つ。これで綺麗に側面が取れた。大会の時には打てなかった面だった。

 防具の稽古が終わると全日の型をやった。奥さんから聞いた話では初日は全日の薙刀(先が竹でなく、総木の薙刀)は使わなかったと言っていたのでよっぽど置いていこうかと思ったのだが、念のため持っていって正解だった。そして、毎日の奥さんとの稽古のなかで、全日をやっておいて本当によかった。なんとか恥をかかずに済んだ。

 午前の練習が終わって昼食時に、N君とF君に「いやあ、二人のと地稽古できてよかったよ」と言ったら、「いや、こちらこそ」N君が言った。F君が笑いながらN君に、「側面取られた?」と訊いて、N君が「あ、あれ側面だったかな…」とか言っていた。どうも僕が側面得意だとバレたらしい。けど、二人に打ったのは、実は質の異なる側面だけど。

 そんなこんなで得るところの大きかった稽古だった。また、毎日「柔らかい使い方」を練習していて本当によかったと思った。前のままだったら、とんだ恥をかいていたのではないかと冷や汗ものである。

 課題もある。本当は、切っ先で追いつめて、追いつめられた側が苦し紛れに出て来たところを出ばな面で捉える、というのが、剣道八段戦を研究してからの僕の理想の戦い方なのだ。だが、ここぞ、と思って出した面は、今回の地稽古ではほとんど相打ちか、下手すると打ち負けていた。側面に対して、まだ正面打ちの精度が足らない。

 同時に、相手の正面打ちに対する返し技ももっと研究が必要だと思った。今回やろうと思っていた返し技は、実際の動きの中ではほとんど間合いが詰まってできなかったか、それを繰り出すのに間に合わなかった。もっと自在なる動きの返し技が必要だと思ったのである。

 そすて練習終わると、足の豆がつぶれていた。豆ができるのも久しぶりだが、つぶれるのはさらに久しぶりである。それも左右のい人差し指外側という、両足の同じ場所に豆ができたのだった。ある意味左右均等に同じ動きができている証ではあるが、豆ができるとはやはり練習不足の証拠か。けど、これから目指す動きをはっきりと自覚できた、いい稽古となった一日だった。


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