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2018年06月22日16:18

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中国王朝史35 清の最盛期

●清王朝の最盛期

「清」朝の最盛期は、
「康熙帝」「雍正帝」「乾隆帝」の三人の皇帝の名前で語られる事が多い。
前項でも述べたが、第四代「康熙帝」は
華南に展開する呉三桂ら部将が起こした「三藩の乱」を制圧し、
事実上の中華帝国としての要件を満たすに至った勲功のある皇帝である。

これにより「清」朝は繁栄を極める事になり、
長期安定王朝の足場が固まったことになる。
康熙帝と雍正帝の時代(1661-1722、1722-1735)は文化興隆も進んだと見え、
その様子はこの時代から煌びやかに飾られた肖像画からも窺い知る事が出来る。

 そして第六代「乾隆帝」時代(1735-1796)が「清」朝の最盛期である。
自らを「十全老人」と名乗るように十度に渡る外征を行い全勝し、
ミャンマー、ベトナム、ラオス、タイなどを服属させるなど、
清朝は最大版図を形成する。
しかしそれは飽くまで乾隆帝の主観的な主張であった。
実際には苦しい戦いも多く、
服属はさせたが清朝が優位に立ったとは言えないケースもあり、
まぁ色々あった外征ではあったが
「清」朝が栄えたのは事実だ。

 乾隆帝による外征で財政的には疲弊はあったものの、
国内は平和が長く続き人口は爆発した。
17世紀末に2億だった人口は、18世紀には4億を越えていた。
しかしながら、農作地は殆ど増えなかったため、
民草では食糧難が恒常化し、民衆が匪賊化する事が増えていった。
また対外戦争が落ち着くと、戦上手な満人兵は堕落し弱体化していった。

往々にして長期政権の凋落とは
最盛期からの没落が始まりで
清朝においても例外ではなかった、ということだ。

また85歳でようやく譲位して太上皇となっていた乾隆帝は
耄碌しつつも政治介入し、
かつ重用していた軍機大臣のヘシェンが私腹を肥やすなど悪政を行うなど
衰退の兆しが既に見え始めていた事も指摘されている。


●時代遅れ

1644年に「明」が李自成に滅ぼされた機に北京に入った「清」朝だったが
世界の潮流からは取り残されつつあった。
世界ではね既に明代に大航海時代、
ロシアのロマノフ家による帝国誕生、
日本への鉄砲伝来、
英国のピューリタン革命、
オスマン帝国の興隆とウィーン包囲、
フランス・ブルボン朝の興亡〜ナポレオン戦争、
と様々な変革が起きていたが、
かなり体質の古い中華王朝である「明」朝と
それを保存的に征服した「清」朝が継承した事で、
中華帝国は時代遅れの様相を呈していたのだ。
やがて、それに気づかされるショッキングな出来事が起こる。

≪年表13≫世界史との比較

1368〜     明朝興る
1415〜1648 大航海時代(ポルトガルがモロッコのセウタを支配する)に突入
1542      種子島に鉄砲伝来
1589〜     フランスにブルボン朝興る
1603      徳川家康が江戸幕府を興す
1613〜     ロシア帝国ロマノフ朝が興る
1642〜1649 イギリスでピューリタン革命
1644〜     明が滅亡し、第三代・順治帝が国号を「清」とする
1662〜1722 清朝第四代・康熙帝の治世
1683      オスマン帝国(1299〜1922)によるウィーン包囲
1803〜1815 ナポレオン戦争
1722〜1736 清朝第五代・雍正帝の治世
1736〜1795 清朝第六代・乾隆帝の治世
1789      フランス革命


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