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2018年05月18日16:13

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Sウィリアムスと言うと。。。

セレーナ・ウィリアムスじゃないよ。

最近になって、僕の「プロレス観」が比較的大きく変わってしまったので
過去の文章との整合性が無いかも知れないが
スティーブ・ウィリアムスもまた、忘れられない選手であり
日本のプロレスを大きく変えた選手の一人であった。

斉藤さんという、プロレス評論の第一人者の文章に
何らケチをつけるつもりは無いのだけれども
やはり肯定的な評価と同時に、
彼の存在が「三沢の死」を早めた一因ではないかと考えるからだ。

全日マットでパートナーを務めていたテリー・ゴディの存在も同様であるが
ゴディは生粋のレスラーであり、プロレスの本質を理解していた選手だった。
ゴディは人格に難が出て来る晩年は目も当てられなかったが
ウィリアムスは、そういう意味では
良くも悪くも「ずっと変わらずに居てくれた」と思っている。

「四天王プロレス」と呼ばれる危険な技の「受け合い」が
全日マットの中心軸に在った時代に
肉体だけは頑強で、多少の無茶な技を受けても壊れなかった
ウィリアムスだったが、
明らかに他の選手と比較して荒っぽく
アマレス経験者であったにもかかわらず
「レスリング下手」な選手であった。
相手の掛けてきた大技をコピーして返す「掟破り」系の返しや
完全コピーの技が多かった。
最初はオーソドックスなスープレックス系の技の流れなどが
見せ場の一つだったが、力任せの感は否めず
その上、ナックルを使ったり、キックの精度が低かったりで
流れが美しい「スティーブタイム」のような時間帯は無かった。

ただ、返し技が強烈なもんだから
相手の攻勢が続いても一発でひっくり返す、みたいな
終始デンジャラスな存在ではあり続けたと思う。

そんな彼が早々にメインイベンターに成れたのは
そういった危うさがファンに受け入れられたからかもしれない。

今見ても、来日当初のフィニッシュホールドである
「オクラホマスタンピート」(持ち運び型のアバランシュホールド)は
掛けられる方より掛ける方に負担が掛かっていると思うので
説得力はゼロだ
よっぽどロープにホイップしてからの高速パワースラムの方が
強烈で効果あったんじゃないか

加えて、明らかに掛け損ないのバックドロップが
いつしか「殺人バックドロップ」になり
アメフトタックルもハンセンの真似である。
挙句の果てには「タイガードライバー」である。
勿論、出来ることはやったら良いが。。。

そんなこんなで
力があるので、ダイナミックな技を掛けることは出来ても
誰かの真似か力任せかばかりで
彼の試合のストーリーでの役割は「タフ」であることだけだったような気がする。

そこに元々ジュニアヘビーの体格であった三沢と川田が
合わせざるを得なくなることで
より危険でレスリング性の低い技ばかりが
「四天王プロレス」のメインストリームを流れることになるのだ

今更ながら
三沢のエルボーバットに
フェイスロックが如何に省エネで
選手を傷めない効果的なフィニッシュだったかと思うと
「垂直落下式●●」とか「エプロンサイドからの●●」とか
危険なだけの技に頼らざるを得ない三沢たちと
それを受ける側に回るウィリアムスたちは気の毒な気もしてきた。

彼は病に倒れたが
当時闘ってきた選手の内、大半が鬼籍に入っており
時代の経過と「四天王プロレスむの激しさを
改めて思い知る事になった。

■スティーブ・ウイリアムス 不死身のドクター・デス――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第79話>
(日刊SPA! - 05月18日 09:02)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=81&from=diary&id=5115767
アメリカのレスリング・ポリティックスを毛嫌いし、日本のリングでその才能を開花させたエリート・アスリート。

 新日本プロレス、全日本プロレスの日本の2大メジャー団体で15年以上にわたりメインイベンターのポジションをキープしつづけた。

 スティーブ・ウイリアムスにとっていちばんプロレスラーらしい生活とは、1年を通じてアメリカと日本を行ったり来たりすることだった。

 ニックネーム“ドクター・デス”はプロレスラーとしてのキャラクターではなくて、学生時代にフットボール部のチームメートからつけられたあだ名だった。

 オクラホマ大在学中、秋はフットボール(オクラホマ・スーナーズ)、冬はレスリングで活躍したウイリアムスは、いつも顔じゅうキズだらけだった。

 フットボールではオール・コンファレンス、オール・アメリカン選抜に選ばれた。

 レスリングではNCAA選手権決勝戦(1982年=ヘビー級)でブルース・バームガートナーBruce Baumgartnerに4−3の僅差の判定で敗れた(バームガートナーはそれから2年後、1984年のロサンゼルス・オリンピックで金メダルを獲得)。

 アマチュアのままレスリングをつづけていたら、オリンピックに出場していたかもしれない。

 オクラホマ大4年のときにビル・ワットにスカウトされて、1982年夏にいったんプロレスラーとしてデビューしたが、USFLのドラフト指名を受け、ニュージャージー・ゼネラルズ、デンバー・ゴールドの2チームで2シーズンだけプロ・フットボールを経験した。

 1984年に再デビュー後は、おもにMSWA地区(ルイジアナ、ミシシッピ、オクラホマ)に定着し、テッド・デビアスとのタッグチームで活躍した。

 ボスのワットはウイリアムスを将来の世界チャンピオン候補と考えたが、MSWAミッドサウスはUWFに改称後、NWAジム・クロケット・プロモーションに吸収合併され、ウィリアムスもNWAクロケット・プロ所属となった。

 ウイリアムスが目撃したNWAのドレッシングルームは「お山の大将とゴマすり野郎と裏切り者のサウナ」だった。

 リングの上でもバックステージでも、レスリングが強いだけではどうにもならない“政治の力学”がうごめいていた。

 プロレスの試合だけに集中できる環境として、ウイリアムスは日本のリングを求めた。それはかつてスタン・ハンセンやブルーザー・ブロディが選択したアスリートとしての生き方だった。

 ウイリアムスは約4年間、新日本プロレスのレギュラー外国人として活躍し、1990年(平成2年)に“円満トレード”という形で全日本プロレスに移籍した。

 ウイリアムスにとって生涯のベストマッチは、三沢光晴から三冠ヘビー級王座を奪取した試合(1994年=平成6年7月28日、東京・日本武道館)ではなくて、そのあとに小橋建太を挑戦者に迎えておこなった同王座初防衛戦だという(1994年=平成6年9月3日、東京・日本武道館)。

 ウイリアムスは小橋とのタイトルマッチを「ハートとハートで闘った試合」とふり返った。

 1998年にWWEと契約し、全日本プロレスのリングを去った。ウイリアムスをリクルートしたのはオクラホマ時代からの親友で、ウイリアムスのよき理解者のジム・ロス実況アナウンサーだった。

 しかし、WWE専属の“放送作家”ビンス・ルッソーが「(ウィリアムスを起用できる)ストーリーが思いつかない」という理由からほとんどTVショーにも登場せず、約2年間の“飼い殺し状態”がつづき、2000年、WWEを退団して全日本プロレスに復帰した。

 2004年(平成16年)4月、ウイリアムスはテキサスの病院で喉頭ガンの告知を受けた。ガンができたノドと声帯を切除する手術ではなく、化学療法と放射線治療を選んだ。

 それは「手術をしたらリング復帰が遅れる」という理由からだった。ウイリアムスは、もういちど日本のリングに上がる日を思い浮かべながら最後の最後までガンと闘った――。

●PROFILE:スティーブ・ウィリアムスSteve Williams
1960年5月14日、コロラド州レークウッド出身。1982年、デビュー。1983年から2シーズン、プロフットボール選手としてUSFLでプレー。1986年7月、新日本プロレスに初来日。1990年、全日本プロレスに移籍。テリー・ゴーディとのコンビで『世界最強タッグ』2年連続優勝(1990年=平成2年、1991年=平成3年)。1994年(平成6年)、三冠ヘビー級王座獲得。1998年、WWEと契約。2000年(平成12年)、全日本プロレスに復帰。2004年、ガン告知。2009年12月29日、コロラド州デンバーの病院で死去。49歳だった。
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