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2018年03月28日06:14

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なぜ、当時38歳位の第一高等学校教授の竹山道雄さんの書いた「ビルマの竪琴」は酷いと言われたのか…

なぜ、当時38歳位の第一高等学校教授の竹山道雄さんの書いた「ビルマの竪琴」は酷いと言われるのかに…つきまして、ビルマから復員した方の戦後30年経ってからの所感を本日記の末尾に上げてご高覧に供します。


さて、竹山先生は、仏教の戒律に関しても本邦での知識はきっとお持ちだったとは思いたいのですが、ビルマの戒律はご存知ではないようです。ましてや、兵隊の生活も。

竹山先生は、東京帝大文学部独文科ご卒業で、独仏に留学された立派なご経歴の由、適否はともかくとしまして、竹山先生が兵や軍を侮蔑されることには、慰安婦をつれて逃亡した陸軍将官が目撃された例もありますから、一定の理解が可能、あるいは、無理からぬ部分はあったでしょう。

しかし、それを認めつつも、竹山先生ご自身がご存じないことをあたかも事実かのように仕立てて、年少者向けに語ることはいけない、竹山先生の影響力のある高い社会的身分を考慮した場合、賢明とは言えない、極論すれば、扇動と言う評価を受けても仕方がないと思います。

あるいは、戦前の東京帝国大学文学部出身の第一高等学校教授のビルマに対する知識の程度がこの水準でしかなかったと言う現実を今を生きる我々の課題と捉えるべきなのでしょうか?



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ビルマ敗戦行記 一兵士の回想録  荒木進

序篇 


三、

この本文は正しく敗走記である。 だが一書には、私たちが戦意を失い、無責任な敗走をしていたかの如き印象を与える記述がある。それは私達兵隊の心情に照らして受け入れ難い。

(中略)

末期においても、みな戦わずして退却したのかと思われたら大いなる過ちである。大体そんなことができる戦場ではなかった。辛うじて撤収、集結しつつあったのである。最後の死戦に備えるために。

終戦時に至るまで、前線各部隊は各方面において、機甲力で圧倒的に優れる英軍の追尾攻撃に対して、あらゆる苦難を排して悲壮な戦闘を続けた。

その間に数万の将兵が死んだ。只事で語れることであろうか。

私はその場にめぐり合わせなかっただけである。


  (中略)


その一書の著者は軍人ではないから、任地が危険になったら安全な後方に退ってよい。現にその人は、ビルマは危ないからと言われて、早くタイに退った人である。

だが私達兵隊はそうは行かない。たとえ運よく一時の死戦は免れても、結局はビルマの土になるまで戦わざるを得ない。

同じ敗走の形に見えても、それを内から見るのと、外から見ているのでは、大違いである。



5〜6頁部分

非売品
発行 昭和五拾六年九月三十日
著者 荒木進
   東京都世田谷区深沢八丁目十七の七
印刷 日立印刷株式会社



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